もちろん俺も反戦なんだけど、この記事の川久保玲は「声を上げよう」と呼びかけているわけではないんだよね。反戦のトーンが強まったのは事実だけど、本人は「あまり政治的なことは言いたくありませんし、自分には何もできません。だから割と遠くからというスタンスを取ってきました」と言っている。
それが年齢や社会情勢で「時間がない」と感じるようになった、という話で、時間がないのは、川久保氏自身の残り時間のことでもある。その両面があるから、少し声を強めた、ということだよね。で、川久保氏は「ちゃんと(反戦と)声を上げよう」とはいってないのよね。じゃあどうするか?という後半に、川久保氏の真骨頂がある。
後半はラグジュアリーブランドの極端な値上げへの批判をしているわけ。それで、若い人がいい服を着て気持ちを上げて、何か良い方に向かえばいい、と、服の力を信じているわけ。つまり、「まず(私は)いい服を提供しよう(それが自分ができることだ)」ということだとおもうよ、これは。ファッションのパワーの話なんだよ。
まあ、朝日のタイトルの付け方もよくないよねw誤読を誘ってる印象は否めない。まあ、SNS時代は仕方ないけどねえ。
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# 花形氏槙『エルゴノミクス胚』雑多な初回感想メモ
最終日に見に行ったんだよね〜〜!
面白かった!
ちゃんと書くのは俺の能力に余るので、あくまで感想メモ。批判的な言い方ががおおいけど、これは考えることが多かったということで、けなしているわけではないのよ。
そしてTAVで買った作品来るの待ち遠しいねえ。
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・140分は、長くてちゃんと退屈だった!そう、退屈だったからつまらないという話ではないのよね。まあ、ただ、単におれ自身の集中力の問題もあるし、そもそも極端に微細な身体運動を長時間見ることに向いていない、という個人的な特性も含めつつの退屈さで、これは想定内ではある。そしてもうひとつは、変化の少ない動作を凝視させるということ自体のもつ退屈さで、これもどうしようもない。まあ、一般的に緊張感を維持しにくい構造だからね。なので、退屈さ自体は問題ではなく、存在しうるであろう退屈さに対しての観客への配慮がないというのは気になるところではある。なんというか、いや別に「十分に刺激的である」とかいっても良いんだけど、いや、あのゆっくりな動きを延々と見るのは一般的に行って退屈でしょ。そこを「アートだから」とかいってしまうとそれこそ<捻転>しないので、この魅せることへの退屈さということに対しては、もう少し明確な問いがあっても良い気はする。劇場にいる意味は?映像でいいじゃん、ではなくて?みたいなところよ。一回性とかに回収せずにね。バーニーのクレマスター3とかみたいなクソ長い飽きる作品が映像であるように。あれ、まあ美しいけど見るの苦痛でもある、みたいなもんじゃん。それはおそらくそこに意味を求めるからなんだけどねえ。ただおれはこの<時間を拘束される>という感覚については、とにかく敏感ではある。
・冒頭での観客に椅子への一連の座り方・ずらし方法指示、ただしわかり易すぎて、いやでも椅子・身体の定義ずらしを意識させすぎてはしまうな、と思いながら体験していたが、「椅子」を意識させることとしてはいい。ただし、これ以降、自分と椅子をつなぐ方向がないので、それは公演後の帰路以降になる。
・その後、4人の出演者がそれぞれだいたいひとり30分程度かけて椅子になる・壊れる。服を脱ぎ、身体をゆっくり変形させて人が座る。HMDとモーションキャプチャで、自分の身体を崩れる椅子としてリアルタイムに描画する。義肢を取り付け、実際に人を座らせる。身体の表面や輪郭が映像上で変形し続けながら、最後にはインダストリアルっぽい音でもりあがり、舞台っぽさが出てきており、ここでいやがおうにもこれは舞台的ななにかなのだねえ、と認識されられた。
・大前提として、この身体の実験自体は面白いと思う。人間が椅子になりえるというか、椅子と人間の関係を逆転させてみようと試みる、というのは、馬鹿馬鹿しくもあり、しかし考えてみればそれほど突飛でもないため、導入で阻害されることはない。これは花形氏の言う<捻転>の一部としてもよくわかる。見方によってはちゃんとバカバカしさが残るというのは、これも真摯さの表れではある。安易な緊張感の構築ではなく、退屈感と結果としてのバカバカしさにおとしこめつつ、弛緩しない、というのはすごく重要なことだと思う。そこは成功されていたように感じた
・つぎに疑問。まず、退屈について:なぜこれを140分間見る必要があるのか?ということ。冒頭につながるんだけど、まあ、簡単にいうと飽きるんだよね。それ自体は悪いことではないんだけど。パフォーマーがこれを2年近く続けた過程でいろいろな発見があったことを記した「変異日記」(当日配られたステートメントに収録されている)に対し、さて、私たち観客はなにを見せられているのか?そもそも、彼らが発表することにより、彼らの<捻転>の手助けをすることに過ぎないのではないか?とは思う。つまり、観客不在になっているね。これはおそらく意図されているとはおもうんだけど。
・ここで当日配られたステートメントの言葉に再度目を落とす:「この公演は公演ではない」「ここには、観客も演者も存在しない」。そしておれは4500円を払い、決められた時間に会場へ来て、140分間の上演を鑑賞しており、途中の入退出もできない古典的な拘束される。古典的な観客態度ではあるね。もちろん制度の内部から制度を問題化することはできけれど、花形氏の「凝視し、見出せ」という要求も加味すると、いささか観客に対してだけ、やたらと古典的な観客仕草を要求し過ぎている気もする。これが惜しい。
・さらに、本当にこれは140分必要かという問題がある。いやいや必要なんだよ、というのはたぶん美術的なコンテクストを踏まえたものでしょ、という気持ちがあって、ここが妙に「美術」っぽいんだよな、というかんじ。人間が椅子のような姿勢になるだけなら、1〜2分あれば十分だし、じゃあなんでそれを30分かけて行う。これは『動作を極端に引き延ばすことによって、身体の形態が曖昧になり、通常の身体運動とは違うものとして知覚される』みたいなものだと思う。で、これは、ステートメントや日記にあるよう、これが演者にとって必要なんだろうけど、それは、「美術」っていうコンテクストに結構依存してた見せ方なのではないかな、ということ。つまり美術であることえお前提にこの見せ方が成り立つような感じで、だからフォーマットとして美術を借りている感じがするんだよね。
・例えば古典のロバート・ウィルソンとフィリップ・グラスの『浜辺のアインシュタイン』。あれは非常に長い作品で、反復する音楽、身体、照明、舞台美術によって時間そのものが構成されているってやつね。でもこっちは退出も自由。池田亮司の作品だって、40分程度で十分に強烈な知覚体験を生み出す。
・凝視しておくという参加はあるんだけど、凝視をしやすい参加にはなってなくて、どうしても舞台装置なんだよね。椅子になりゆくのであろう演者を眺めるしか無い。ここでふと、何回か田中泯とデレク・ベイリーの即興や、暗黒舞踏などを思い出したわけ。もちろん文脈は全然違うんだけど、身体をどう見せるか、身体の認識をどう変化させるかという問題には、すでに膨大な実践の蓄積があって、そこが「微細な変化に依る連続性とか身体性の拡張、異化」はあるんだけど、現代にドパガキ、ADHD文化においては、そろそろ、かつてのJohn ZornやMASSONAが示したような凝縮された時間感覚、みたいな身体感覚も徹底しうるのではないかなあ。まあ、MASSONAは暴力性があって、そこでカタルシスがあるわけだから、カタルシスのない10分を売る、と言うのは相当に難しいわけだけど、そもそもこの<人間と椅子>自体、そうした短時間でのシークエンスを売ることでも成り立つのではないか?とは思った。
・花形氏自身は、極端に遅い動作の中でも、身体のイメージが高速で変化し続けることを変異日記で述べている。そう。身体の動きと知覚の変化は同期しないのはわかるんだけど、その<極端に遅い動作>という中では、脳が補完しつづけることがあり、<引き延ばす>というのは、むしろ前衛的でもあるわけで、LLMやAIといったテクノロジーは、「ドパガキ」がそうであるように、むしろ時間圧縮をする、というのが流れだとは思うので、どちらかというと、椅子と人間は、量子的に同時ぬ存在しうるのではないか?というような圧縮方向なのではないかなあ。これは長時間椅子に座って作業するホワイトワーカーがまさにそうじゃん。その問題にも踏み込めるのでは?というところで、結構歯がゆい感じはする。
・めちゃくちゃ蛇足だけど、ものすごく雑な話をすると、見ること見られることの関係性による身体意味変化みたいなことは、別にアート特有でもなくて、ボレロ、ボブ・フラナガンのパフォーマンス、GGアリンの滅茶苦茶なライブ、ハプニングバー、色んなところにおこっているわけで、それをどう切り取るか、という作法の方になるのではないかなあ。もちろん花形氏は、それを「人が椅子になる」というかたちでねじれた形で切り取っているわけで、そこは見事なんだよな。ただ、
・しかしハプニングバーなんて、それこそ見る側と見られる側、参加する側としない側の関係が絶えず変化しているわけで。しかし、そこにはそこなりの規律があるわけなんだから、つまり規律があることと、身体の関係が変容することは矛盾しない。だから、観客と演者の関係が曖昧になるということだけでは、それほど驚くものでもないわけ。なので、このようなプリミティヴな身体経験を「アート」として、「新たな存在」「異なる倫理」「境界の変容」などと語ることには、どうしたって既視感はでてくるというのはある。それを「引き伸ばした体験」とすると、どうしてもね。
・いや、それはわかってるよ。そのうえで、何をしたの? ということなんだよな。例えば、出演者が服を脱ぐことについてもすこし思うところはある。全員は脱がなくても良かったのではないか、ということだね。変異日記では、服を脱ぐことを人間性を一枚ずつ脱いでいくような経験として語っている。そう、ちゃんと脱衣に対しても言及されている!では、そもそも椅子は服を着ないのかというと、むしろ椅子にカバーをかけることなんて普通にあるだろう。汚さないためにとか、座り心地を変えたりとか、装飾するためにとか。なので、服を脱ぐことによって椅子になるというのは半分であり、椅子もまた服を着ているしきせられる、とも言えるわけだ。つまり、裸用のものをデフォルトにする必要はあまりない。
・身体を扱う以上、性的なものとの関係なことは、今回ほぼ廃していたので、これはよかった。花形氏たちの実験は、他者に座られることへの喜び・痛みといった慾望があり、これをして性的とは言えるわけだ。ただし、主題はそこに置かないので、そこを避けてくれたのは正しい。これはつい言及してしまいたく鳴る所なので、とても良い。ただし、それを「新しい倫理」や「存在の変容」といった言葉へとまとめられていくと、そこの意図したものが単なるウォッシュやコレクトネスになってしまったようで、少しもったいない。
・「変異日記」は面白い。2年間の実験によって、演者自身の身体感覚がどのように変化していったのかが具体的に記録されているんだよね。ただ、その記述が積み重なると、次第に、我々はこれほど驚異的な変容を経験したのだ、という物語にも見えてきてしまう。そうすると、観客はあらかじめそのような変容が起きることを知らされ、「凝視し、見出せ」と要求されることになるじゃん。それって観客が自分で何かを発見する以前に、発見するべきものがすでに設定されているのではないかなあという感覚はあって、これは俺がそもそも舞台芸術に感じるなじめなさそのものにも通じるのかもしれないなあ...
Binance's initial investigation suggests that the security incident may involve a compromised DevOps engineer’s laptop, which allowed an attacker to gain access to a service container and submit unauthorized withdrawal transactions. We have found no evidence of any wallet private key leak. We will share a detailed technical post-mortem once the investigation is complete and the facts are fully verified.
The estimated total impact sits at around $6.3B. We have worked with blockchain partners to freeze affected assets, with ~$3 billion frozen on-chain so far.
Binance will cover all losses from the SAFU fund and the company’s funds. User funds are safe. We will also publish an updated Proof of Reserves once the remediation is complete.
As an immediate precaution, Binance has:
- temporarily suspended deposits and withdrawals while security checks are completed;
- revoked the affected address authorisation;
- engaged law enforcement and blockchain intelligence partners to trace and recover funds.
Our teams are working around the clock to resolve this issue safely and thoroughly. We are working closely with our law enforcement partners to confirm the identity of these criminals and bring them to justice.
Please rely only on official Binance channels for updates. Please feel free to contact Binance Customer Support if you have any further questions.
binance.com/en/support/annou…
前者は裕福だと思うけど、これを裕福だというと「それで裕福(笑)」になり、「貧乏」というと「それで貧乏っていうな!怒」となるので、裕福ではない、配慮を考えた結果、否定形で、ニュアンスをのこした言い方になるのかなあ…こういう時例えば「金銭的には不自由ない家庭で〜」といえばいいのかもしれないど、「じゃ家庭の金銭レベルは?」には直接答えられてない、となるんだろうなあ……難しい
たかふみ retweeted
スマホ内のデータ提供を拒否して起訴 命令制度の導入後、初の事例 asahi.com/articles/ASVBV2526…




















