11/2、3、4
3日連続、集中イベント!
いい会になると思います。
来場だけでなく配信もあります。
ぜひご覧ください。
docs.google.com/document/d/1…
曽根裕展、および、エルモ半兵衛麩会場について、外部観察者に徹してもらえております。すごい。
murrari.hatenablog.com/entry…
素晴らしいレポート!!!
とても嬉しいです☺️
「曽根裕」はどこまで遡るか
KYOTO INTERCHANGEの壁に、メキシコの密林を撮った白黒写真が並ぶ。尖った葉が細い線を重ね、黒く沈んだ茂みの上に白い空が抜ける。正方形に近いプリントは額装されずに壁へ留められている。プリントの下の壁面には、「Jungle Bal-Mil/隠されたジャガーの家」といった題が細い字で直接書き込まれている。
会場の床には赤茶の座卓がいくつも点在し、藍地に白い花模様の座布団が添えられている。座卓の上には、粒を並べて描いた植物、灰色の塊、盤と駒、本や資料などが置かれている。
曽根裕は、1965年静岡生まれ、日本、アメリカ、メキシコへと活動の拠点を移してきた現代美術家である。
ここには、曽根の個展と「エルモメントペルフェクト」という二つの展示が同居している。エルモメントペルフェクトは、曽根を含む複数の作家が参加するグループだ。壁面の白黒写真は曽根の個展、座卓の上にある作品や資料はエルモメントペルフェクトの展示に属すると思われる。
本展を企画した遠藤水城は、国内外で展覧会を手がけるキュレーターで、2011年の曽根裕展「Perfect Moment」も企画している。
1.三つの時期と、一つの名
遠藤は曽根の経歴を日本期・アメリカ期・メキシコ期に分ける。拠点の移動を根拠としながら、作家像、作品形式、実践制度が絡み合って変わる過程を捉える「試案」である。
遠藤は、日本期とアメリカ期の間にグローバルアートの勃興を、アメリカ期とメキシコ期の間にその変質・退潮を見ている。ただ、この区分が後に組み替わったとしても、私たちは同じ曽根について語り続けるだろう。経歴の説明が変わっても、同じ人を指せるのはなぜか。
そこで、柄谷行人『探究Ⅱ』の固有名をめぐる議論を手がかりにしたい。固有名は、その人物を特定するための記述の束に還元できるだろうか。
例えば「ソクラテスが女性だったら」と仮定しても、問われているのはあのソクラテスである。知られている属性とは異なる可能性を考えても、私たちは同じ人物について語れる。柄谷のいう単独性は、他人との比較で測れる個性ではなく、別様でもありえたその人自身に関わる。
この意味で、「曽根裕」という名も、三期の経歴を圧縮した見出しではない。経歴を記述することと、その人物を名指すことには、ずれがある。
2.同定すること、過去をたどること
座卓に置かれたファイルに、そのずれを考えさせる図があった。同じ形式の図が何枚も綴じられている。
「幼虫・蛹・成虫」「子ども・思春期・大人」「生者・死体・幽霊」「学習データ・潜在空間・生成データ」、そしてエヴァンゲリオンを思わせる「人類・補完計画・気持ち悪い」。いずれも三つの項が左から右へ並び、中央の項は大きな枠に囲まれている。
下側には両端を結ぶ双方向の矢印があり、Identifiability〔同定可能性〕と記されている。一方、上側には右端から左端へ戻る線があり、Traceability〔追跡可能性〕と記されている。どの図でも、この戻る線上に×が置かれている。
こうして異なる領域の変化を同じ図式に並べる方法からは、レヴィ=ストロースがトーテム論を連想した。
自然界の差異を社会の差異と対応させる思考が思い起こされる。概念の定義から始めるのとは違い、具体的なもの同士の関係を使って、別の領域の関係を考える知的な方法である。
ここでは、そのうち人の成長の図を手がかりに、名指すことと来歴を説明することの関係を考えてみたい。
人の成長の図では、大人から子どもへ戻る線に「青春」の語がある。「あの子どもは私だ」と同じ自分を認めることと、「私はこうして今の私になった」と過程を説明することは同じではない。
私は戻る線上の×を、この二つのずれを示す印として読む。同じ人だと認められても、その人がどう変わってきたかを現在からたどり尽くせるとは限らない。
同じファイルにある三角形の図は、この違いをさらに際立たせる。頂点の「大人」と底辺の「子ども」の間に、「思春期」と記した帯が横に引かれている。大人から下りる矢印は「青春」を経てこの帯に届く。しかし、その先の矢印は、子どもの手前にある×で途切れる。ここでの「青春」は、大人の視点から、かつての思春期に与えられる名である。当時の経験を捉える言葉である一方、現在から過去をまとめ直す一つの筋でもある。しかも、この図では、その筋は子どもまでは届かない。
この区別を、曽根の三期にも重ねてみる。子どもと大人を別の段階に分けても同じ人を指せるように、経歴を三つに分けても「曽根裕」という名の指す人物は変わらない。ただし、同じ人物を指せることと、その変化の過程を一つの来歴で説明し尽くせることは別である。
3.「実は」が変える過去
壁の写真に目を戻そう。ここでは、新作をきっかけに、先行する絵画の位置づけが変わっている。ステートメントによれば、写真はジャングル絵画群とほぼ同じ画角で密林を捉えている。曽根は、その絵画は実はドローイングだったのであり、写真こそ作品本体だという。つまり、同じ絵画を指し続けながら、それが制作のなかで何であったかが訂正される。絵画という物自体は変わらない。変わるのは写真との関係と、制作のどの段階を作品の成立と見なすかである。この変更を、遠藤は「作品/作品未満」の線引きの更新として捉えている。
この「実は」を、東浩紀『訂正可能性の哲学』の議論に重ねたい。先ほどの「ソクラテスが女性だったら」は、知られている属性と異なる可能性を仮定する例だった。
それに対して、東が挙げるのは、ソクラテスが「実は女性だった」と発見される場合である。同じ人物を指したまま、過去についての記述が訂正される。東は、こうした訂正には起源への遡行が必要であり、その遡行には一種のフィクションが含まれるという(誤解してるかもしれないが私はそう読めた)。
先の図の×を、過程をたどり尽くせない印と読んでも、過去についての理解を訂正する余地まで失われるわけではない。曽根もまた、いま呼び方を変えるだけでなく、過去の制作が何であったかを言い直している。
「実は」と言うとき、曽根は現在から新しい位置づけを与えながら、それを過去の制作に立ち返って見いだしたものとして語っている。東のいうフィクションを、この遡行に読み取ることができる。
ただし、過去の来歴を組み直したからといって、その来歴が初めから決まっていたわけではない。絵画をいまドローイングと呼び直せても、それが最初から写真を目指していたことまでは導けない。三期の区分についても同じである。現在から曽根の歩みを記述することと、その移行が一本の必然だったと考えることは違う。
4.壁と座卓のあいだで
では、「曽根裕」という名で語られる制作史は、どこまで遡って組み直されうるのか。いまエルモメントペルフェクトとして座卓に置かれた粒の植物や盤と駒が、後に曽根の作品の一部として位置づけ直されることはないか。
例えば、個々の制作者の名を保ったまま、それらを含む場全体が曽根の一つの仕事として語られる場合を考えてみる。そのとき、「曽根裕」という名が指す人物は変わらない。しかし、何を一つの作品として数えるかは変わる。自作の絵画を呼び直すところから、他者の関わる複数の実践をどうまとめるかへと、訂正の及ぶ範囲が広がる。
訂正によって一つの来歴ができること自体は、問題ではない。問題になるのは、その来歴を最終的な説明として固定してしまうことだ。座卓の上のものは、いま曽根の個展とは別の企画として提示されている。
後にそれらが「曽根の作品」に含まれたとしても、その新たな来歴が、それ以前の実践まで説明し尽くしたことにはならない。別の人の関与や次の制作によって、そのまとまりは再び変わりうる。過去を訂正する判断を、その判断自身も訂正されうるものとして引き受けられるだろうか。
もっとも、この再編が「曽根の新たな展開」として市場で評価されれば、座卓の上の異質な実践は、一人の作家の価値を高める要素にもなる。外部を取り込む資本の働きを考えるなら、変更可能性そのものも価値として流通しうる。現在の区分を明示することも、それ自体でこうした回収を防ぐわけではない。
それでも、いま何が別の企画として提示されているかを明らかにしておけば、後に全体が一つの仕事として語られたとき、何が組み替えられたのかを確かめられる。
遠藤は三期を分け、写真の展示を壁面で成立させ、座卓を別の企画の場として開いている。そのうえで遠藤は、座卓の散漫な配置を「変更可能性のフォーメーション」と呼ぶ。
この構成を東のいう訂正可能性から読むと、区分を示す現在の判断も、次の訂正に開かれていることが見えてくる。三期区分も、遠藤のいう「作品/作品未満」の線引きも、対象の可能性を決め尽くさず、次の実践によって再び問われるための足場として置かれていると読める。
この点では、壁の写真も例外ではない。いま写真を作品本体とする判断は、絵画の過去を変える。
しかし、それで写真自身の未来まで決まるわけではない。後に何かが作られれば、この写真が「何だったか」も変わりうる。そのたびに、何を同じものとして名指し、どこまでを一つの作品として遡って捉えるのかが問われる。
二つの展示が同居するこの場では、作品の未来とともに、その過去もなお制作の途中にある。
付記:以上は、展示とステートメントを手がかりにした私自身の解釈である。グローバルアートについては、会場奥のテーブルにあった図録にもヒントがあったように思うが、ギャラリーツアーが始まり、私が遠慮してしまい最後まで読み切れなかった。
面白いテキストなので時間を確保して読むのがいいと思う。
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展覧会情報
「曽根裕」
会期:2026年8月27日(木)–10月25日(日)
会場:KYOTO INTERCHANGE/半兵衛麸ビル2F ホールKeiryu
所在地:京都市東山区問屋町通五条下る上人町433
開場時間:10:00–17:00
休廊日:水曜日、9月12日、10月17日・18日
入場料:無料
キュレーター:遠藤水城
主催:KYOTO INTERCHANGE
協力:株式会社 半兵衛麸
同時開催:「エルモメントペルフェクト」
公式案内:kyotointerchange.com/post/yu…
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【改めて告知】
キュレーター・遠藤水城によるプロジェクト〈批評と日本と私たち〉の制作に関わっています。11月2日~4日にかけて、京都でレクチャーとリアルタイム翻訳イベントを開催します。
会場のリアルタイム翻訳ソフトをAIに作らせていますが、果たして本番までインターネットは平和だろうか…
エルモメントペルフェクト(8/27-10/25)。
参加者が120名を超えました(9/15現在)。
Instagramのキャプションに随時ナマエを追加しています。
instagram.com/p/DbxubxMna4v/…
遠藤水城 retweeted
🪧レクチャー「Don’t Follow the Wind」はいかに翻訳されたか」by ジェイソン・ウェイト(オックスフォード大学)
2026年11月2日(月)19:00〜21:00
会場:AIR大原(京都市左京区大原来迎院町218)
定員:会場30名
料金:会場500円/配信1100円(税込)
配信あり。チケット購入:stream-ticket.com/events/det…
ぜひに!
【情報解禁🗾】
キュレーター・遠藤水城によるプロジェクト〈批評と日本と私たち〉が始動します。僕は制作として入っています!
まず11月2~4日にレクチャーとリアルタイム翻訳イベントを京都で開催。リアル・配信の両空間で、今日における美術と批評の「翻訳」を考えます。
docs.google.com/document/d/1…
こちら、ぜひお願いします!!!
Replying to @Memobook39
🗣️黒嵜想「声をかく」リアルタイム翻訳プロジェクト
2026年11月3日(火)10:00~18:00/11月4日(水)10:00~12:00
インターネット配信のみ
料金:1100円(税込)※11月3日のみ
チケット購入:stream-ticket.com/events/det…
※4日は極セカイ研究所 @Polar_sekai_ken のYouTube Liveで無料配信予定
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翌11/4(水)10〜12時は、英訳作業の続きを極セカイ研究所のYouTube Liveで無料配信する予定です。
youtube.com/live/_wCNkSZy4qQ…
遠藤水城 retweeted
前日の11/2(月)19時〜は、ウェイトさんのレクチャー「『Don’t Follow the Wind』はいかに翻訳されたか」。福島の帰還困難区域で開かれた展覧会を、ウェイトさんがどう海外に"翻訳"したかを聞きます。こちらにも登壇します。
stream-ticket.com/events/det…
ぜひ!!!
〰️〜声をかく〜〰️
遠藤水城さんの企画〈批評と日本と私たち〉に登壇します。
連載「声をかく」を、ジェイソン・ウェイトさんと対話しながら英訳していく、その過程をまるごと公開します。
11/3(火・祝)10〜18時、配信のみ。チケット発売中。
stream-ticket.com/events/det…














