動物というのはいつか死ぬし、それも大抵唐突に死んでしまうものである。だから彼らが生きているうちに後悔が残らないように、きちんと公正につきあってやるというのが、ペットの死に対して我々がなしうる最良の行為ではないかと僕は考えております。
そういえば僕も小説を書きはじめたころ、名前について、いろんな人に「いくらペンネームでもちょっとマズいんじゃない?」と言われてめげた覚えがある。村上春樹という名前のどこがマズいのかよくわからないけど、これはとにかく本名です。すみません。
しかし何はともあれ、誰がなんといおうと、勇気があってもなくても、フル・マラソンを走り終えたあとで食べるたっぷりとした温かいディナーというのは、この世の中でいちばん素晴らしいもののひとつである。
誰がなんと言おうと。
僕はたしかに子供のころは偏食の傾向が強くて苦労したのだが、大人になってからはいろんなものを努力して食べるようにしてきたし、事実大抵のものは食べようと思えば食べられるようになった。でも中華料理だけは何があろうとぜったいに駄目なのだ。
僕は主義としてというか(要するにケチなだけみたいだが)一万円以上の値段の時計はまず買わないのだけれど、そのかわりに安い時計をいっぱい持っている。時計なんてとにかく時間が合えばそれでいいんだと思っているから、たかが腕時計に二十万も三十万も出す人の気持が僕にはよくわからない。
調子の悪いときは悪いなりに、自分のペースを冷静に的確につかんで、その範囲でなんとかベストを尽くしてやっていくというのも、大事な能力才能のひとつであろうと思う。そんなに無理をしないで、首をすくめてこつこつしのいでやっていれば、そのうちにまた少しずつ調子は戻ってくるのだから。
結末を前提に物語の具体案をつくってしまうと、小説を書くこと自体が楽しめなくなります。画家なら、絵の具を使い取りかかる前に、スケッチから始めるでしょうが、僕はそれとは違う。白いキャンバスを前に、絵の具ブラシを持ち、ただひたすら描いていくのです。
