イエスは旧約の律法や伝統を人間のために読み直したと思うけど、後世の神学は旧約との整合性を保とうとしているように感じる。
旧約の成就とは、あらゆる記述の正当化ではなく、神の意志の実現ではないのか。
神学が精緻な哲学体系になるほど、かえってイエスから遠ざかるようでモヤモヤする。
何回も言うけど、
お供えを「日々生かされていることへの感謝」って言う人いるけど全く納得できん。
神が「人間が互いに助け合って陽気に暮らすのを見たくて」身体を貸しているのであれば、その感謝は、教会にお金を納めることではなく、助け合って陽気に暮らすことでしか返せないはずなんだよ。
教会が「子どもを助けたい一条」の神の思いを現し、たすけ一条に歩む場として機能しているのであれば、教会へのお供えはその神の思いへの協賛になる。
つまり大切なのは、「お供えがその先で誰のために、どう生かされるか」であって、教会へのお供えが無条件に意味を持つと思ったら大間違いです。
一神教は何かと批判されるけど、うちの神は、
・「神はあると言えばある、ないと言えばない」と自分で言っちゃう
・他の神仏の前でも手を合わせるように言う
・反対する者も可愛い我が子
・心だけは人間の自由に任せちゃったので、最終的に困ったら脅してくる
という、なかなか推せる神です笑
仮説だけど、親神天理王命の「親心」は月日といざなみの二つ一つではないか。
月日には、魂は生き通しという長い時間軸から陽気ぐらしを願う「意志としての親心」がある。
一方、いざなみには、身体を持つ母として子を産み育て、幾度もの出直しを見届けた「共感としての親心」がある。
神学や宗教哲学は、一つには教義と現実との間にある齟齬や矛盾との格闘の歴史と言える。
証明であれ否定であれ、神に関する論証は何らかの前提に立つ。矛盾なく説明できることと、その前提を受け入れる十分な根拠があることは別の問題だ。
最近、Thundercatの『Distracted』ばっかり聴いてる。ハズレ曲がなさすぎる。良すぎ。
music.apple.com/jp/album/dis…
宗教的な真理が客観的に存在しても、直接観測はできない。祈りや瞑想、苦悩、対話、日々の選択という主観的な営みから、輪郭を探ることはできる。
だが、輪郭の一部をなぞって真理を掴んだ気になり、人に振りかざすべきではない。
たとえ真理が書かれていても、それを現実に生かすのは人の心だ。
宗教組織にありがちな悪手
・皆同じ格好で同じ事する
・身内でしか通じない言葉
・すぐ歌やスローガン作る
・やたらと役職が多い
・良かれと思って金品や労力を求める
・良かれと思って若者の進路に口出す
・若者を求めるわりに若者に任せない
これ全部逆張りすれば、勝てるのになんでやらないんだ?
伝統って、いちいち初期設定から考えなくて済むという意味では合理的なんよね。
でも、神がいる前提の天理教が、歴史の長さを正しさの根拠にしていいのか。
むしろ自分たちが積み上げた伝統を、教えに照らして問い直す。そういうカウンターであるべきなんじゃないかね。


