
劇団「Please Mr.Maverick」(@pmmaverick)代表。演劇祭優勝5回。#鳥取県 #米子市 出身の脚本家、演出家、俳優。NHKみんなのうた「あのドアの向こうに」作詞。これまで3,000人以上の役者を見てきました。みんな演技がうまくなってほしい!
劇団Please Mr.Maverick
Joined January 2010
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11月になりました。
今月も作詞を手がけた曲が
#みんなのうた で放送中です🎤
『あのドアの向こうに』
うた:今尾侑夕(ゆーゆ)
作詞:歳岡孝士/作曲・編曲:沢田完
映像:ホッチカズヒロ
朝、いつもの部屋が少し違って見える─
そっと一歩を踏み出したくなる歌です。
ぜひ聴いてください。
<NHK 総合>
月、水、金 10:55〜11:00
<Eテレ>
月、水:12:45〜12:50
火、木:8:55〜9:00
金:11:55〜12:00
web.nhk/tv/an/minna/pl/serie…
感情を外に出すには、勇気がいる。
なぜ勇気がいるのか?
たとえば、映画館で
泣きそうになる。
ところが、となりに知らない人がいる。
前の席には、高校生のグループがいる。
どうするか?
鼻をすする。
すすったのを、咳でごまかす。
メガネの位置を直すふりをして
涙をぬぐったりする。
たとえば宴会で
カラオケがまわってくる。
本当は、思いきり熱唱したい。
こぶしもまわしたい。
目をつぶってマイクを両手で握りたい。
でも、課長がこっちを見ている。
新人の女の子がスマホをいじっている。
で、ちょっとふざけて歌う。
本気じゃないですよ、という顔で歌う。
なぜ、こうなるのか?
笑われるかもしれない。
バカにされるかもしれない。
この中に、敵意のある人が
潜んでいるかもしれない──
人は、自分を
大事にしておきたいのである。
特別な存在にしておきたいのである。
心のどこかで、
傷のつかない、きれいな箱に
自分をしまっておきたいのである。
箱に入っているあいだは、
感情は、外に出せない。
役者は、
この箱から出なければいけない。
バカにされることも、
受け入れられないことも、
笑われることも、
ぜんぶ飲みこむ。
飲みこんだうえで、
ようやく、
自分の演技ができるのである。
成長には無様が必要なのである。
大人になって、ひとつ発見をした。
部屋の片付けというのは、
始めると、前よりも散らかるのである。
押し入れのものを全部出す。
床が見えなくなる。
足の踏み場もなくなる。
なんでこんなことを始めてしまったのか
と、いつも後悔する。
でも、その大混乱をくぐり抜けないと、
絶対にきれいにはならないのである。
世界も、たぶん
そういうふうにできているのだと思う。
混沌から生まれて、
ぐちゃぐちゃのうねりの中から、
きれいなものが出てくる。
散らかっている時間は、途中なのだ。
終わりではない。
演技も同じである。
カッコ悪いのがイヤだからといって、
ぐちゃぐちゃに飛びこまないでいると、
いつまでたっても、
押し入れを開けないまま
「うちはそこそこ片付いてます」と
言い張っているような芝居しかできない。
開けたら大変なのは、みんな知っている。
枠からはみ出さない、
小さな自分のままで、
ずっとやっていくことになる。
それはそれで平和だけど、
つまらないのである。
だから、カッコ悪さを恐れない。
恥を恐れない。
戦うのである。
役者にも、免許があっていいと思う。
といっても、
大げさなものではない。
力まなくても、ちゃんと声が響く。
それくらいの、いわば原付免許である。
なんでかって、
最近、みんな声が小さいのである。
稽古で台詞を聞いていると、
声が客席に届く前に、
舞台の床にポトリと落ちている。
ときどき、拾って渡しに行きたくなる。
でも本人は落としたことに
気づいてないので、
渡されても困ると思う。
──声が小さい。滑舌が悪い。
最初のうちは、いい。
誰だって、はじめはそうである。
自分だってはじめは何もできなかった。
今もできないことはたくさんある。
でも、何年やってもそのまま、というのは
これはもう改善したほうがいい。
ほんとに。
だって芝居というのは、
伝える芸術なのである。
伝わらなかったら、ただの
「何かを小声で言っている人」である。
ラーメン屋で言えば、
スープがぬるいのと同じだ。
どんなに麺にこだわっていても、
チャーシューがどんなにとろけていても
スープがぬるいと、食べる気がしない。
大将が「うちの麺は北海道の小麦を……」
と熱く語りはじめても、こっちは
「いや、それよりスープ……」
と思っている。言えないけど。
感情も、間も、役の人生も、
まずは声に乗って
客席まで届いてくれないと、
はじまらないのである。
まあ免許制、
なんて言ってはみたところで、
演劇では、免許の代わりに
オーディションがあるのであった。
今月、オーディションを5回やった。
5回やって、やっぱり思う。
キャッチボールは大事だよ、と。
みんな、自分の演技力を
認めてほしいのである。
イヤ、もう、それはそうなのだ。
そうなのだけれども
認めてほしい気持ちが強すぎて、
かけあいの台詞で
相手の台詞を聞かない事が多いのである。
聞いてるポーズをして、
次の自分の台詞の、
一番いい言い方を準備している。
本番でもそうなのだけど、
自分がうまく見えることに
一生懸命になると、
相手が生きない。
そして、相手が生きないと、
不思議なことに、自分も生きない。
かけあいというのは、
相手のボール(言葉)をキャッチして
相手が取ることを想定して投げ返すから
自分の球が、生きて見えるのである。
いくらフォームをきれいに見せても、
ボールが相手に届かなければ、
それは、うまいとは言えないのである。
審査側から見ていると、
キャッチされずに
草むらに転がっていくボールが、
けっこう、よく見えるのであった。
一緒に流れる
チョコレートプラネットさんの
「フライパンDJ!」も
とっても良い曲です。
ぜひ聞いてください📻
NHKのサイトでも
お聴きいただけます。
スマホの場合はアプリが必要です。
PCならそのままお聴きいただけます。
one.nhk/www.web.nhk/tv/an/mi…
地元、鳥取の学生時代の友人から、
ひさしぶりに連絡が来た。
なんでも、
掃除をしながらテレビをつけていたら、
みんなのうたが流れてきたのだという。
いい曲だなー、と掃除機を止める。
誰の曲だろう、と検索してみる。
すると、作詞のところに、
歳岡の名前が出てきた。
……というわけで、
「あのドアの向こうに」を聞いたよ、
という連絡だったのである。
鳥取というところは、人口が少ない。
少ないうえに、
みんな、県外に出ていってしまう。
だから、こういう連絡は、
ほんとうに久しぶりなのである。
久しぶりに話せて、よかった。
よかったのだが、
正直に言うと、
久しぶりすぎて、
何を話せばいいのやら、
という、アレもあった。
「元気?」
「元気」
「そっちは?」
「元気」
で、ちょっと間があく、みたいな。
それでも、
こういうことがあるのは、
やっぱり、うれしいものである。
「孫に聞かせたい」
と言ってもらって、嬉しかったけど、
孫がいる歳か、そうか、となりました。
10月~11月の新曲なので、
来月もまだ流れますが、
楽曲のリクエストは、
こちらから送ることができますので
ぜひ、よろしくお願いいたします。
nhk.or.jp/minna/songs/MIN202…
「無意識」は、積み重ねでできている。
どういうことかというと、
試しに左手で歯をみがいてみるといい。
……これが、みがけない。
ブラシが、思ったところに行かない。
右手なら、
テレビを見ながらでもみがける。
寝ぼけていてもみがける。
何十年も、毎朝毎晩やってきたからである。
積み重ねというのは、
こういうことなのである。
演技も、同じだ。
芝居は人間を演じる。
同じ人間だから、
心も感情もあるから、できる気になる。
だけど蓄積がなければ
できない表現がある。
左手でも、
何も考えずに磨けるようになるには、
毎朝毎晩、左手で磨くしかない。
近道は、ない。
演技も、何度もやるしかない。
いい演技ができる「無意識」が
育つ生活を、するしかないのであった。
いい芝居をする人は、
台詞覚えがいい。
これは、だいたい当たっている。
かなり当たっている。
こう言うと、
「いやあ、ボクは覚えるのが遅くて…」
と、頭をかく人がいる。
ところが、
覚えるのが遅いと言いながら、
いい演技をする人というのを
よく観察してみると、
家で、ちゃんと台本を読んでいる。
稽古場でも、休憩のたびに
壁に向かってブツブツやっている。
遅いなりに、覚えようと、
ジタバタしているのである。
このジタバタが、エライのである。
いちばんよくないのは、これである。
「まだこの時期だから、
覚えてなくても大丈夫だろう」
台本を片手に持ったまま稽古をする。
目は台本に落ちている。
相手の顔は見ていない。
相手の台詞も、
半分くらいしか聞いていない。
この期間の稽古は、
あまり稽古にならない。
そして、なぜか、
うまくない人ほど、
この「まだ大丈夫だろう」が多い。
うまい人ほど、
早くから大丈夫じゃないと思っている。
大丈夫だと思っている人が、
いちばん大丈夫じゃないのであった。
思うに、「信じる」という、
あのデリケートきわまりない行為を、
いさぎよく明け渡してしまう潔さが、
役者にはどうしても必要なのである。
そもそも人間というものは、
何かを信じないと生きていけない。
この水は安全である、と信じるから、
コップに口をつけられる。いちいち
「これは本当に飲んでいいのか」と
疑ってたら、喉が渇いて干からびる。
なんでもそうだ。
科学だって、神だって、
信じることが行動の規範になる。
信じることは、生きることに、
そのまま直結しているのである。
翻って演技においては、
みんな「感情を演じる」ことこそ
演技だと思っている。
喜怒哀楽を、
それはもう絵の具みたいに
鮮やかに塗りたくって、
どうだ、と見せて、
満足してもらおうとする。
けれども──
演技というものは、
「信じること」のほうを、
捧げなければならない。
それは時に必死であり、
はっきり言って無様である。
そういう、これ以上ないくらい
無防備な姿、
普通なら見られたくない姿を
大勢の前でさらけ出す。
それが演技には必要なのであり、
役者は、精神的にタフであることが
求められるのである。
「演技に正解はない」
「演技で正解を探すのはよくない」
よく言われる。
実によく言われる。
言われたほうは
「ハイッ」と、いい返事をする。
深くうなずいたりもする。
うなずいてはみたものの、
「……で、どうすりゃいいの?」
となるのである。
わかったような
気がしただけなのである。
「気がした」というのは、
実にクセモノなのであった。
ではこの言葉、
どういう意味なのだろうか?
それは──
人間の行動に、そもそも
「正解」なんてものが
ないからなのである。
朝、駅に向かって
走っているおじさんを
見たことがあるはずだ。
カバンを抱え、ネクタイをなびかせ、
アゴを突き出して走っている。
あのおじさんは
「正しい焦り方」で
走っているだろうか?
「いまのワタシの腕の振り、
焦って見えてるかな」
などとは、考えていない。
おじさんの頭の中にあるのは
「8時12分発」だけである。
遅刻したくない。間に合いたい。
目的があって、行動する。
人間というのは、
こういう順番でできている。
ところが演技となると──
とたんに話がおかしくなる。
「焦って走る」という場面がある。
すると役者は、
このお題にふさわしい走りはどれか、
どう走ったら演出家やお客さんに
「焦ってるなあ」と見てもらえるか、
を考えはじめる。
眉間にシワを寄せてみたりする。
息を「ハッ、ハッ」と
多めに吐いてみたりするのである。
お気づきだろうか?
電車が、
どこかへ行っちゃってるのである。
目的が「間に合うこと」から
「評価されること」に
すりかわっているのだ。
これが
「正解を探す」ということの
正体なのである。
だから、やることはひとつだ。
「遅刻したくない」
を目的にセットする。
で、走る。
それだけである。
それだけなのだが、
これがなかなか、
それだけにならないのであった。
舞台が始まると、
お客さんの反応もあって、
もっと楽しくなるし、
受け入れてもらえるのがわかると
もっといろんなことをしたくて
たまらなくなる。
「お客さんを想定して、演技する」
ことの大切さはそこにあるのだ。
結局は本番に入ってから、
浮き足立ってしまう。
本気を出しても、
ぶれずにいられる。
そういうことが、
とても大切なのである。
プロが自由気ままに
飛びまわっているように見えても、
じつは、下地に、
うんざりするほど繰り返した
基礎練習がどっしり控えている。
体が感覚を掴まえ、覚えているから、
その上で、自由に羽ばたける。
土台があやふやなままの「自由」は、
ただのでたらめに
なってしまうのであった。
言葉というものは、
結局のところ、
言葉にすぎないのである。
たとえば、ものすごく深い
実感があったとする。
人生がひっくり返るような
大発見をしたとする。
それを人に話そうとする。
すると、
「すごい」
で終わってしまうことがある。
あるいは、
話しはじめたら止まらなくなって、
気がつくと窓の外が白んでいて、
相手はとっくに寝ている、
ということもある。
一言でも、一晩でも、
どっちにしても、
伝わりきらないのである。
実感というのは、
言葉の網の目から、
スルスルとこぼれ落ちていく。
だから、どんなに深い経験も、
結局は、その人のものなのである。
これは、三大開祖にしたって
同じだったはずである。
言葉だけでは伝わらないから、
言葉だけではない演劇というものが、
この世にあるのだろう。
演技論というのも、同じことで、
基礎の訓練にはなる。
なるけれど、
最後は自分でつかみ取るしかない。
その点において、
体験にかなうものはないのである。
知識を得るのは悪いことではない。
いろんな角度からものを見られる。
これは大事である。
ただ、知識だけで
「わかった」
という気になるのは、まちがっている。
本で読んだ水泳の知識だけで、
海に飛び込んでも泳げはしないのである。
たぶん溺れる。
演技の上手い下手は、
台詞にどう色をつけるかで決まる。
と、多くの人が信じている。
かたく信じている──
けれども、たとえば、
「おかえり」という台詞がある。
これを、やさしく言ってみる。
さびしげに言ってみる。
語尾をちょっと上げてみる。
「おかえ……り」と、間をあけてみる。
ところが、
どれだけ引き出しを開けても、
その「おかえり」は、
なかなか胸に届かない。
なぜか?
大事なのは、台詞の着色ではなく。
その役に、どれだけの因果を
背負わせることができるか。
これが、大事だからである。
十年分の因果を背負った人間の
「おかえり」は、
やさしく言わなくても、
さびしげに言わなくても、
語尾を上げなくても、
ちゃんと、十年分の「おかえり」になる。
人生を与えられた役は、
勝手に喋りだすのである。
しかも、ちゃんと、
台本に書かれた台詞で。
ここがいい役者の
しびれるところなのである。
本番が迫って、稽古も佳境です。
上演台本を書き、演出もやっております。
『あ・い・で・す アンソニー』
絵本「とかげのアンソニー」の舞台化。
毒薬をもらったら、優しくなれた──
これは、認知症介護問題に
真っ向から立ち向かう物語です。
認知症の母の介護に追いつめられた
主人公、アンソニー。
恥ずかしくて、知り合いにも頼れない。
誰にも言えないまま、
ひとりで抱え込む毎日。
そんな彼の前に、ある日
ひとりの魔法使いが現れます。
差し出されたのは、
一週間で使えるようになるという毒薬。
使えば誰の目にも老衰にしか見えない。
苦悩しながらも
毒薬を受け取ってしまうアンソニー。
だけどその翌日から、
アンソニーは母に優しくなれたのです。
一週間後、
アンソニーが選んだ答えとは?
介護は、若いうちは
誰もが他人事だと思っています。
けれど、かなりの確率で、
自分も向き合うことになる。
そして……
やってみなければわからないのに、
その、やらなければならない時には
もう切羽詰まっている時なのです。
誰もがアンソニーになる可能性がある。
笑って、泣いて、
少しだけ明日の自分を考える。
そんな舞台を、11月、
小田原・三の丸ホールでお届けします。







