関ヶ原の戦いが終わり、日本が豊臣から徳川の天下に移り変わる頃
「太閤(秀吉)は京都に立派な大仏を建立したから今も名が残っている、家康がこれから天下の主となることを示すなら、同じように何か立派なものを作って後世に名を残すべきだ」
と家臣が家康に意見したことがありました。すると家康は
「太閤はそのようなことが好きだったのだろう。だが自分は、天下を安らかに治め、何代か後になっても政治の筋目や暮らしの風が衰えないようにする。それは大仏を何体も建立することに勝るのではないかと考えている」
と返答します。家康に意見した山岡景友と前波勝秀の2人は顔を赤くして自らが余計なことを言ったと恥じたそうです
このエピソードは徳川幕府が正史として書いたものなので、家康を持ち上げるために盛られた話かもしれませんが、良い話ですよね
日本に仏教が入ってきてから神仏習合は進みますが、伊勢神宮に仕える斎王など一部では、日本に仏教が伝来してから数百年が経過しても仏教用語を「忌詞(いみことば)」と言って口にすることすら禁止されていました
仏は中子(なかご)、寺は瓦葺(かわらぶき)、僧侶は髪長(かみなが)、と呼ぶなど、口にする必要がある場合は別の名称で読んでいました
こう聞くと神職が仏教を嫌っていたように聞こえますが、実際はそんなことはなく、斎王を引退した女性が出家して仏教徒になることもありました
つまり、仏教を嫌っている訳ではないけど、古くからの神事の伝統や独自性を守るために、仏教を儀礼上排除する必要性があったんですね
戦国時代までの日本では生きた僧侶を船に閉じ込めて海に流す「補陀落渡海(ふだらくとかい)」という儀式が行われていました
1、船の中央に設けられた小さな船室に僧が入る
2、水・食糧・灯火用の油などを積む
3、外側から船室の出入口を釘で打ち付けて閉ざす
4、別の船で沖合まで曳航する
5、沖合で曳き綱を切り、風と海流に任せて流す
なんの為にこんな事をしていたかというと、観音菩薩が住む補陀落(観音浄土)に辿り着くための方法だと信じられていたからです
平安時代から戦国時代まで行われていましたが、途中で逃げ出して帰ってくる人もおり、江戸時代には生きた僧侶を送り出す形式は廃れて、死んだ僧侶の遺体を流す儀式に変化しています
柏原といえば信長とは直接関係ないですが、信長の弟が治めていて、その後、信長の息子・信雄の子孫が江戸時代を通して治めていた町です。あと、ひとつ面白い言い伝えがあります
1579年、織田信長の命令で丹波攻略を進めていた明智光秀の軍勢は「柏原八幡宮」を焼き払いました
その3年後の1582年、光秀は本能寺の変を起こしますが、秀吉に敗れて死亡しました
神社が焼けた日と光秀が死んだ日は、どちらも旧暦の6月13日だったとされており、日付が一致したのは柏原八幡宮の神威の現れだという噂が立ちました
後年には光秀の死を「恐ろしき神罰が下った」と記録しています
丹波市柏原は、織田家ゆかりの歴史ある城下町です。落ち着いた平穏な街並みをゆっくりと散策し、温かい地元の方々と交流しながら、「五つ星ひょうご」に選ばれた逸品や地元のお茶にめぐりあい、心が癒やされました。ぜひ秋の丹波市へお立ち寄りください。youtu.be/eG2zmfO9PQ4
日蓮宗の僧侶の方が「日本にモスクって必要ですか?」と発言して批判されていますが、日蓮宗は元々「他宗派の教えが国を乱す」と主張して多宗派批判をしまくってきた宗派なので、この人が特別おかしな訳ではなく「日蓮宗の僧侶としては」日蓮の思想に沿った正しい主張だと思います
戦国時代には織田信長も、他の仏教宗派を批判して揉め事を起こす法華宗(日蓮宗)には苦労しており、自ら仲裁に乗り出したこともあります。動画にしてるので見てください!
youtu.be/b5wGmYx0VLg
「日本では江戸時代まで仏教の教えで『牛』や『馬』を食べることが禁忌とされていた」
と言われますが、実はこれ、始まりは仏教的価値観ではなかったという研究があります。675年の天武天皇による「殺生禁断令」以来日本に牛と馬を食べちゃいけないという価値観はあるが、これは
「日本の農業生産力をあげるため、農業に使う牛馬を保護する目的があった」
というもので、肉食禁止令の背景には「稲作を中心とする農耕の推進が主要な着眼点にあった」というのは複数の研究者が主張しています。この主張の根拠の一つとしてあるのが、天武天皇による「殺生禁断令」では
「牛・馬・犬・猿・鶏」
を食べる事は禁止されているのに
「豚・イノシシ・シカ」
は禁止されていないので、農業に役立つ動物を保護しようとしたのだろうということです。猿はなんで禁止したのか分かりませんけど
あと仏教が広がった国でも肉食が禁止されなかった国は多数あることも根拠の一つです
学歴自慢する人、喧嘩強い自慢する人、水商売で売上自慢する人、などなど、興味ない人からすると「それに何の価値があるの?」ってものを自慢する人いますよね
戦国時代にも「茶の湯」が武士の間で流行った時に、茶器を自慢する人が「何いってんだこいつ?」って目で見られたことがありました
来日していたイエズス会のヴァリニャーノが武士の大切にする茶器を「鳥の水入れ程度にしか見えない」と感じ
「なんでそんな物に大金を払うのだ?なんの価値があるんだ?」
と尋ねます。すると武士は
「お前たちヨーロッパ人もダイヤモンドやルビーといった宝石に大金を払うだろう。それと同じだ。しかし、お前たちが価値を感じる宝石は使い道がないが、我々の茶器はまだ使い道があるのだから、何の役にも立たない宝石をありがたがるヨーロッパ人に非難されるものではない」
と返答したと、イエズス会は記録しています。武士もなかなか良い返しをしますね!
幕末から明治時代に日本が開国して外国から持ち込まれたのは技術や文化だけじゃありません。感染症も持ち込まれるようになり、日本で大流行し、多くの犠牲者を出しました
安政5年(1858)日米修好通商条約を締結していた時、長崎にコレラが侵入し全国に流行しました。明治10年(1877)中国の厦門でコレラが流行した後、長崎や横浜に侵入して全国へ広がり、明治12年と明治19年には、それぞれ年間10万人以上が死亡しています
江戸時代にもオランダと交易していた長崎から感染症が広まることはありましたが、明治に国際交流が増えると、それが更に猛威を振るうようになります
文明開化で日本が急速に海外の文化や技術を取り入れていく中、一緒に入ってくる感染症の犠牲になった人も大勢いたんですね
平安時代までの結婚は、男が女の家に通ったり妻の実家で暮らしたりする婿入り婚が珍しくありませんでした。なぜなら、若い男は十分な経済力を持っていないことも多く、妻の家族から生活の支援を受けることができたからです。特に貴族の場合は妻の父親が出世の後ろ盾になることもありました
ところが鎌倉・室町時代になると、武士たちは領地や家名を代々守ることを重視し、財産や権限を後継者に集中させるようになり、その結果、武士の間では夫の家に妻を迎え、夫婦で家を運営する嫁入り婚が広がりました
そして江戸時代になると、こうした嫁入り婚は庶民の間にも広まり、次第に一般的な結婚の形になっていきました。ただし地域差があり、明治時代以降も古い婚姻慣行が残った地域があります
つまり、結婚したら女が男の家に入るのは日本古来からの文化ではなく、中世から近世にかけて出来た文化です
現代の日本では饅頭といえば、あんこが入った甘いお菓子ですよね。でも室町時代には料理の一品として食べられていました
1528年頃に成立した武家の礼法書『宗五大双紙』には、椀に盛られた3つの饅頭に「汁」と「酢菜」という酢の物、さらに箸を添えた図が描かれています
毛利元就が大内義隆のところに訪問した際の宴会でも饅頭に酢菜を添えて出した記録(元就公山口御下向之節饗応次第)が残っていて。室町時代の饅頭は現在の肉まんや野菜まんに近い食べ物だったことが分かります
ただ当時すでに砂糖を使った甘い饅頭も存在していたので、すべての饅頭が肉まんや野菜まんに近いものだったわけではないですが、食べるまで甘いか辛いか分からない饅頭というのもおもしろいですね
大正時代、日本の家庭にも電気が普及し始めました。しかし当時の一般家庭にはコンセントがなく、電気は主に電灯のために使われていました。
電球のプラグ部分に接続して使用するアイロンやコタツや扇風機等の家電はありましたが、使用する時に電球を外さないといけないので面倒だし、夜は使えませんでした
松下幸之助は日本人に気軽に家電を使わせて暮らしを便利にしたい、でもコンセントが無いのでどうすればいいかと考えます。そこで電球の横にもう一つプラグを追加して、そこに家電を接続する二股ソケットを発明します
これによってコンセントのない家庭でも電球をつけたままアイロンやこたつを使いやすくなり、当時の日本人の暮らしは便利になったのでした




