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『異世界アイドル☆パラレルパレード
──残灯──』
新生 第一章
境界都市ネオアキバ
ネオアキバには、
朝が来ない。
それは比喩ではなかった。
太陽が存在しないわけではない。
超高層区画《アーク・レイヤ》のさらに上、
汚れた雲海の向こうでは、
今も空が世界を照らしているのかもしれない。
だが少なくとも、
この街へ本物の朝が届くことはなかった。
あるのは、
人工の光だけだ。
巨大広告塔。
ライブステージ。
地下街モニター。
駅前ビジョン。
信号機。
スマートフォン。
そして——
忘れられることを恐れる者たちの瞳。
パラ……
黒い雨が降っていた。
地下冷却塔から漏れた結露。
老朽化した再生配管。
都市を循環し続ける、
名前のない涙。
ネオアキバでは、
時々こうして雨が降る。
チチ……
ジジ……
駅前広場の巨大モニターが、
ノイズ混じりに明滅した。
映し出されているのは、
一組の少女たち。
《異世界アイドル☆パラレルパレード》
笑っている。
歌っている。
踊っている。
まるで、
この世界にまだ希望が残っているみたいに。
だがネオアキバの住人は知っていた。
この街で、
光は長く持たない。
歓声は消える。
名前は薄れる。
祈りは忘却へ沈む。
そして——
誰にも観測されなくなった存在は、
都市そのものから削除される。
カツン……
静かな靴音が響いた。
黒いロングコートの男。
雨を避ける様子もなく、
彼は巨大モニターを見上げていた。
人々は彼を、
《管理者》と呼ぶ。
年齢不明。
本名不明。
だがネオアキバでは、
誰もが一度はその噂を聞く。
“消えかけた歌姫を、
まだ舞台へ立たせている男”
管理者は、
静かにスマートフォンを開いた。
青白い画面光が、
雨粒越しに瞳へ差し込む。
そこへ並んでいるのは、
冷たい数字だけだった。
動員率。
観測維持指数。
再生数。
祈り残量。
ネオアキバでは、
数字は生命だった。
名前を呼ばれるほど、
歌姫たちは輪郭を得る。
記憶されるほど、
存在は安定する。
逆に、
忘れられた存在は、
少しずつ世界から剥離していく。
忘却。
それは死より静かで、
死より残酷だった。
パキ……
管理者の足元で、
古いペンライトが砕けた。
色を失った、
灰色の残骸。
かつて誰かが、
必死に振っていた灯火。
管理者は、
その破片を静かに見下ろす。
そして、
小さく呟いた。
「……また減ったか」
巨大モニターの中、
少女の輪郭が一瞬だけ乱れる。
ノイズではない。
存在そのものが、
薄れているのだ。
もう時間がない。
祈りが足りない。
観測が減っている。
このままでは、
彼女たちは消える。
完全に。
管理者は、
それを一度見たことがあった。
ある歌姫がいた。
誰より不器用で、
誰より真面目で、
誰より長く歌っていた少女。
だがある日を境に、
誰も彼女の名前を呼ばなくなった。
次の日、
ライブ映像から彼女の姿が消えた。
一週間後、
誰も彼女が存在していたことを覚えていなかった。
管理者だけを除いて。
だから彼は、
祈りを集め続ける。
歓声。
熱狂。
涙。
炎上。
沈黙。
その全てを、
存在維持の燃料へ変える。
ライブハウスは神殿。
コールは詠唱。
ペンライトは灯火。
チェキは記録媒体。
そしてファンは、
客ではない。
《祈り子》だ。
彼らが名前を呼ぶから、
歌姫たちは夜へ顕現できる。
彼らが灯を振るから、
境界の向こうから帰ってこられる。
だが同時に、
祈りは呪いでもあった。
消えないでほしい。
終わらないでほしい。
ずっとここにいてほしい。
その願いは時に、
歌姫たちから
“消える自由”さえ奪ってしまう。
ゴゥゥゥゥゥ……
遠くで、
低い地鳴りが響いた。
管理者が顔を上げる。
ネオアキバ上空。
汚れた雲海の向こう。
巨大な影が、
一瞬だけ動いた。
ビル群より遥かに巨大な、
人型の輪郭。
胸部だけが、
異様に明るい。
無数の灯。
まるで、
祈りそのものを内側で燃やしているみたいだった。
その瞬間。
街中のモニターが、
一斉にノイズを吐く。
ジジジ……
バチッ——……
映像が崩壊する。
広告塔。
駅前ビジョン。
地下街モニター。
全ての画面へ、
赤い警告文字が浮かび上がった。
⸻
《観測異常》
《記録層ノイズ拡大》
《未確認境界顕現反応》
⸻
通行人たちは、
誰も気付かない。
傘を差し、
スマートフォンを見つめ、
いつも通りネオアキバを歩いている。
だが管理者だけは、
静かに目を細めていた。
雨の向こう。
雲海の奥。
巨大な影が、
ゆっくりこちらを見下ろしている。
その輪郭だけが、
黒い空の中で脈動していた。
ゴゥゥゥゥゥ……
再び、
低い咆哮が響く。
街の灯りが揺れた。
ペンライトみたいに、
弱々しく。
管理者は、
誰にも聞こえない声で呟く。
「……まだ早い」
その瞬間。
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異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-28
―万に一つ―
日が落ちてから、オルフェンは坂を上った。
屋敷の窓には、今夜も青紫の光が滲んでいる。
扉の前に立つと、手を上げるより先に声がした。
「入れ」
管理者は、観測窓の前の机に座っていた。昨夜積まれていた記録は、もう片付けられている。管理者は、窓の外の夜を見ていた。
「管理者さん。お願いがあります」
「話せ」
「北へ行きます。ソナさんを迎えに。……作戦を、一緒に考えていただけませんか」
管理者は、窓から目を離さなかった。
「座れ」
机の端に、湯気の立つ茶が一つ置かれた。
*
五人が知っているのは、自分たちが暮らしていた街と、逃げてきた道だけだった。ソナが送られた施設の場所も、北の城塞の形も、誰も知らない。
オルフェンが話せることは、それで終わりだった。
管理者は立ち上がり、部屋の奥の棚を開けた。
中には、浅い引き出しがいくつも並んでいた。木を削った城壁。高さの違う塔。門。橋。真鍮の歯車。青く塗られた薄い板。部品の一つひとつに、細かな札が貼られている。
「……これ、何ですか」
「城だ」
「どの城の」
「どの城でも組める」
管理者は、記録も地図も開かなかった。
平たい板を机いっぱいに敷き、その上に岩の部品を積んでいく。岬。外郭。中郭。内郭。崖に食い込む細い塔。塔の天辺には、豆粒ほどの鐘が吊られた。
オルフェンは、部品が置かれるたびに、北の城塞が机の上へ立ち上がっていくのを見ていた。
「……これ、全部ご自分で作ったんですか」
「暇な時期があった」
管理者は板の縁に真鍮のつまみを差し込んだ。
一目盛り、回す。
カチ、と音がした。
中郭の環が、ゆっくりと回り始めた。歯車が噛み合い、門の位置がずれていく。さっきまで外郭の門と向かい合っていた中郭の門が、壁の向こうへ隠れた。
「城が、動くんですか」
「夜に三度回る」
それ以上は言わなかった。
オルフェンは身を乗り出していた。目の高さを盤に合わせ、隠れた門の行方を追う。
それから、自分が身を乗り出していることに気づいた。
「……すみません。わくわくしてしまいました」
「好きなだけ見ろ」
管理者は盤の下へ別の板を差し込んだ。細い溝が、根のように城の下を走っている。溝の底には、青く塗られた薄い板が敷かれていた。
「排水路だ。潮が引けば通れる。満ちれば、天井まで沈む」
*
「施設は内郭の北の端だ。崖を背にしている」
管理者の指が止まった場所に、青いガラス玉が一つ置かれた。
小さな玉が、灯りを受けて光った。
「……ソナさん」
オルフェンが、小さく言った。
それから白い駒を取り出し、一つずつ、盤の外の港の端に並べていく。置くたびに、小さく名前を呼んだ。
「グンソさん。ソンミンさん。ヘジュさん。ドンチョルさん。テジュンさん」
六つ目を、少し前に置いた。
「これが私です」
「見れば分かる」
管理者は黒い駒を摘まみ、盤に置き始めた。門に。城壁の上に。塔に。路地の角に。
盤が黒く埋まりかけたところで、管理者は手を止めた。
それから、置いたばかりの黒い駒を、手の甲で盤の外へ払い落とした。
駒が、机の上を転がった。
「兵は問題にならない」
オルフェンは、転がった駒を見た。
「お前は強い。お前一人なら、正面から門を抜けて、内郭まで歩いて行ける」
「では」
「問題は、城そのものだ」
管理者は、渦を巻く三重の城壁を見下ろした。
「この城は、千年以上、一度も落ちていない」
オルフェンは、木で組まれた小さな城壁を見た。
千年。そのあいだに、何人がこの壁の前に立ったのだろうと思った。
管理者は、灰色の札を数枚取り出した。
外郭の城壁。排水路の入口。中郭の歯車の継ぎ目。塔の鐘の下。施設の扉の前。
それぞれの場所へ、札を裏返して置いていく。
「これは」
「行けば分かる」
「……一つだけ、教えていただけますか」
管理者は、外郭の壁の札を見た。
「力を吸う」
それだけだった。
「触れたものの力を?」
「そうだ」
管理者は、最後の札を置いた。
「動かしてみろ」
*
オルフェンは、盤の上の潮を見た。
「潮が引くのを待って、排水路から入ります」
「いいだろう」
管理者が、盤の縁の別のつまみを回した。溝の底の青い板が、かたかたと沈んでいく。潮が引いた。
六つの白い駒が、排水路の入口へ降りた。
先頭の駒が札の脇を抜けた。二つ目も、三つ目も抜けた。
最後尾の駒が、札の上に乗った。
管理者が、入口の上の小さな板を指で倒した。格子だった。格子が落ちて、溝を塞いだ。
最後尾の駒だけが、格子の外に残った。
管理者は、その駒を盤から下ろした。
テジュン。
オルフェンは、名前を口に出さなかった。
五つの駒が、根のような溝を進む。外郭の下を抜けた。中郭の下へ入る。
管理者の指が、潮のつまみに触れた。
青い板が、かたかたと上がり始めた。
「急ぎます」
オルフェンが駒を進める。四つは、中郭の下を抜けた。
五つ目が、溝の曲がり角で止まった。
青い板が、その駒の上まで上がった。
ドンチョル。
管理者は、少し前に出ている白い駒を見た。
「泳げば抜ける」
「では、進めますね」
「お前だけならな」
オルフェンの手が、駒の上で止まった。
それから、残りの三つと一緒に、自分の駒を前へ進めた。
四つの駒が、内郭の下から地上へ上がった。
施設まで、あと路地を二本。
その時、管理者が真鍮のつまみを一目盛り回した。
カチ。
中郭の環が回った。歯車の継ぎ目に置かれていた札が、ちょうど路地の出口へ滑り込んでくる。
塔の天辺で、豆粒ほどの鐘が揺れた。管理者の指が、鐘を軽く弾いたのだ。
小さな、澄んだ音がした。
盤のあちこちで、細い板が一斉に倒れた。路地という路地が、隔壁で区切られていく。
四つの駒のうち、二つが隔壁の手前に取り残された。
隔壁を、背中で押さえているように見えた。
管理者は、二つの駒を盤から下ろした。
ヘジュ。ソンミン。
施設の前に、白い駒が二つ。
管理者が、施設の扉の前の札に指を置いた。
青いガラス玉が、白い駒に寄り添うように動かされた。
「玉に触れた時から、帰り道は別のものになる」
扉の脇の小さな板が、ばたんと倒れた。
扉が閉じた。
扉の内側に、ガラス玉ともう一つの駒。扉の外側に、一つの駒。
管理者は、扉の外の駒を下ろした。
グンソ。
オルフェンの指が、机の縁を掴んでいた。
最後に残った白い駒と、青いガラス玉。
施設の裏の崖を伝い、内郭を抜ける。中郭は回っていた。門が見つからない。オルフェンは駒を、回る環の隙間へ滑り込ませた。
抜けた。
外郭の壁が、目の前にあった。
その向こうは、海だった。
管理者は、外郭の壁の札を指先で叩いた。
「力を吸う」
オルフェンの駒が、そこで止まった。
管理者は、その駒を摘まみ上げて、盤の外へ置いた。
盤の上には、青いガラス玉だけが残った。
裏返しの札と、倒れた隔壁と、沈んだ水路に囲まれて、灯りを受けて光っている。
*
オルフェンは、長いあいだそれを見ていた。
迎えに行くということは、連れて帰るということだった。
「これは、記録に残っている城だ」
管理者が言った。
「城は、千年かけて育つ」
それ以上は言わなかった。
「お前は強い」
管理者は、盤の外に並んだ六つの駒を見た。
「だが、無理だ。やめておけ」
オルフェンは、しばらく黙っていた。それから、一つだけ訊いた。
「成功の見込みは」
「ない」
「……まったく、ですか」
管理者は、盤上の玉を見た。
「万に一つもない」
オルフェンは、盤から顔を上げた。
「では、ゼロではないんですね」
管理者は答えなかった。
部品を一つずつ外し、引き出しへ戻していく。城壁が消え、塔が消え、歯車が消えた。
最後に、青いガラス玉が箱へ戻される。
「今夜は帰って寝ろ」
オルフェンは立ち上がりかけて、机の端の茶に気づいた。手に取り、冷めきったそれを一息に飲む。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。お茶も、ごちそうさまでした」
「冷めていただろう」
「冷めても、おいしかったです」
管理者は、もう引き出しを棚へ戻していた。
*
自分の家に戻っても、オルフェンは灯りを点けなかった。
万に一つもない。
管理者さんがそう言うなら、そうなのだ。疑う理由は一つもなかった。
だから、五人は連れていけない。
命がけで出てきた人たちを、万に一つもない場所へ戻すわけにはいかない。
賭けるのは、自分一人でいい。
支度は少なかった。
最後に、聖剣ルクシオンを手に取った。
暗い部屋の中でも、刀身はかすかに白い光を返した。
柄を握ると、返事のように微かな温もりが伝わってきた。
五人宛ての短い手紙を一通書いた。最後の一行だけ、何度か書き直した。港を通る時に、船へ置いていくつもりだった。
手紙を、ポケットに入れる。
*
夜明け前。
オルフェンは、音を立てないように扉を閉めた。
「行ってきます」
誰もいない家に向かって、小さく言った。
坂道は、まだ薄暗かった。海から上がってきた靄が、石畳の上を低く流れている。
オルフェンは、港へ向かって歩き出した。
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異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA SIDE STORY S-01
― 灯りのない昼 ―
灯町で、流行病が広がっていた。
最初は、咳と微熱だけだった。けれど数日も経たないうちに、診療所の待合室は人で埋まり、通りから子どもの声が消えた。窓を閉めた家が増え、あかり亭の鉄板にも火が入らなくなった。
少女は、店の奥の小さな部屋で布団にくるまっていた。
片方の靴下は脱げている。もう片方も足首までずり落ち、鼻水を垂らしたまま、少女は天井を見ていた。
母ちゃんが布を替える。
「鼻、拭こうね」
「自分でできる」
少女は手を伸ばした。けれど途中で力が抜け、手の甲で鼻の下を擦った。
「そっちで拭くんじゃないよ」
「こっちの方が近いから」
父ちゃんが呆れたように息を吐く。
「病んだ〜」
少女は、少しだけ笑った。
けれど笑った直後、身体を折るほど咳き込んだ。父ちゃんが背中を支え、母ちゃんが湯を口元へ運ぶ。
一口飲むだけで、少女はしばらく目を閉じていた。
「飲めたな」
「天才……」
それだけ言うと、また咳が出た。
その夜、熱はさらに上がった。
少女は何度も目を覚ました。眠っているのか、起きているのかも分からないまま、浅い呼吸を繰り返している。胸が上下するたび、喉の奥から細い音が漏れた。
母ちゃんが額へ手を当てる。
「苦しいかい」
少女は返事の代わりに、あかり亭の方を指差した。
「灯り、ついてる?」
「ついてるよ」
「お店の?」
「うん。消してない」
少女は安心したように目を閉じた。
その直後、呼吸が急に乱れた。
父ちゃんが肩を叩く。
「おい。聞こえるか」
返事がない。
少女の唇が青くなり、手足から力が抜けていく。母ちゃんが診療所へ走り、父ちゃんは少女を抱き起こした。
その身体は、いつもよりずっと軽かった。
診療所から来た医師は、少女の顔を見た瞬間に表情を変えた。
「ここでは無理です。重症室へ運びます」
「重症室って、あの古いところかい」
「古くても、あそこしかありません」
灯町の診療所には、まともな設備などなかった。錆びた鉄の寝台、曇った呼吸器、薬液を吊るす金具、針の震える計器。壁際には、何年も使い続けている酸素瓶が並んでいる。
それでも、重症室には町で一番ましな機械が集められていた。
少女は寝台へ移され、口元へ古い呼吸器を当てられた。透明な管が胸元へ伸び、脈を測る金具が指に挟まれる。
「帰れる?」
少女が訊いた。
「帰れるよ」
父ちゃんが答えた。
「明日には、あかり亭へ戻れる」
母ちゃんは、少女の手を握った。
少女は父ちゃんの袖を掴もうとした。けれど指は途中で止まり、そのまま寝台の上へ落ちた。
「……病んだ〜」
かすかな声だった。
父ちゃんは笑おうとした。
「そうだな。病んだな。だから、今は寝ろ」
少女は目を閉じた。
呼吸器の中で、空気が一定の間隔で押し込まれていく。
昼も夜もない町の重症室で、古い計器の針だけが、忙しなく揺れていた。
しばらくして、針が大きく振れた。
金属製の警告ベルが鳴る。
医師と看護員が一斉に寝台へ集まり、手動のポンプを押し、薬液の管を確かめ、曇ったガラス越しに少女の顔を覗き込んだ。
母ちゃんは廊下で立ち尽くしていた。
父ちゃんは、壁に手をついた。
ベルが止まったのは、長い時間が経ってからだった。
医師が重症室から出てくる。
「まだ危険な状態です」
「助かりますか」
医師は、答えを選ぶように黙った。
「今は、呼吸が続いていることだけを見てください」
それは、助かるという意味ではなかった。
母ちゃんは、重症室の小窓から少女を見た。
小さな身体に、いくつもの管が繋がっている。鼻水を垂らして、靴下を片方だけ履いていた少女は、もう自分で鼻を拭くことさえできない。
それでも、右手の指がほんの少し動いた。
父ちゃんが気づく。
「今、動いたぞ」
「聞こえてるのかねえ」
「聞こえてる」
父ちゃんは小窓越しに言った。
「店は閉めてる。灰鰯も焼いてない。だから、早く戻ってこい」
少女は目を開けなかった。
その日から、あかり亭の前には町の人たちが少しずつ物を置いていった。
春じいは、薄茶の茶葉を小袋に入れて置いた。近所の子どもたちは、銀青の反光帯を一本ずつ結んだ。誰かが薬湯を置き、誰かが柔らかく煮た根菜を置いた。
店先の灯りも、消えなかった。
昼でも、夜でもない灯町で、あかり亭の灯りだけが、少女の帰る場所を示していた。
数日後。
重症室の中で、少女の呼吸が一度だけ、呼吸器の動きより先に戻った。
看護員が計器を覗き込む。
「今、自分で吸いました」
父ちゃんと母ちゃんは、小窓の前へ駆け寄った。
少女は目を開けていた。
声は出せない。身体も動かせない。ただ、視線だけがゆっくりと窓の方へ向いている。
その先に、あかり亭の灯りがあった。
少女の唇が、呼吸器の下でわずかに動く。
父ちゃんには、最初の言葉だけ分かった。
「病んだ〜」
母ちゃんが泣きながら笑った。
「うん。病んだねえ」
少女は、ほんの少しだけ目を細めた。
それから、何かを言おうとした。
けれど、声にはならなかった。
「天才」と言ったのかもしれない。
「帰る」と言ったのかもしれない。
あるいは、何も言っていなかったのかもしれない。
その日の夜、少女の熱はまた上がった。
呼吸器のベルが、二度鳴った。
あかり亭の灯りは、消えなかった。
まだ、少女が帰れる状態になったわけではない。
明日、呼吸が続く保証もない。
それでも父ちゃんは、店先の灯りを見上げた。
「戻ってこい」
母ちゃんも、隣で小さく頷いた。
灯町の人々は、その灯りの下へ、毎日少しずつ物を置き続けた。
薄茶。薬湯。反光帯。焦がし灯酪チーズの端。
そして、誰にも読まれないかもしれない短い紙。
《病んだら、休め》
重症室の古い計器は、夜になっても針を揺らしていた。
少女の呼吸は、まだ機械に支えられている。
それでも一日に一度だけ、自分の力で息を吸う。
その一度が、明日もあるのかは分からない。
灯りだけが、先に帰りを待っていた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-26
―鍵―
紙の裏に、文字が増えていた。
まだ、戻れる。
オルフェンが思ったことと、同じ言葉だった。句点の位置まで、同じだった。
オルフェンは紙を折り目に沿って閉じた。開いたままにしておくと、続きを書かれそうな気がした。
顔を上げると、管理者はもう背を向けていた。
「管理者さん。記録庫は、どこに」
「港の外れの観測塔だ。地下にある」
昨夜、三音を調べろと言われた場所だった。
「管理者さんは」
「戻る。読みたいものがある」
それだけ言って、管理者は廊下の奥へ歩いていった。
手の中の鍵は黒く、古く、冷たいのに、握っていた場所だけが温かい。
背後で、船室の扉が開いた。
「その紙、船の外へ出すのか」
グンソだった。
オルフェンは、ポケットの上から紙に触れた。
「置いていく方が、怖いです」
グンソはしばらく黙っていた。それから、上着を掴んで廊下へ出てきた。
「なら、俺も行く」
「グンソさんは、船にいた方が」
「その紙が外で何をするか、見てないと落ち着かない」
*
夜の港は、静かだった。
係留鎖の音が、背中の方で遠ざかっていく。倉庫の並ぶ通りを抜け、灯りのない路地を二つ曲がる。
港の外れに、観測塔が立っていた。
天蓋の青紫を背に、黒い影だけになっている。窓の灯りは一つもない。てっぺんの観測器は、とうに止まっていた。
扉に鍵はかかっていなかった。
中に入ると、上へ向かう螺旋階段と、地下へ降りる細い階段があった。
一段降りるごとに、外の波の音が遠くなる。代わりに、別の音が近づいてくる。
――サー……。
雨ではない。波でもない。
「聞こえるか」
グンソが小声で言った。
「はい」
「数えるなよ」
「もう数えています」
階段は、十三段だった。
降りきった先に、鉄の扉があった。錆びた表面の文字はほとんど削られていて、一つの言葉だけが残っている。
記録庫
鍵穴は扉の中央より少し低い。子どもの背丈なら、ちょうど目の高さになる位置だった。
鍵を差し込む。
回す前に、ポケットの中で紙が動いた。開いた覚えはないのに、折り目の内側に文字が浮かんでいる。
《右へ回す》
《左へ回す》
《回さない》
「見せるな」
グンソが言った。
「紙に訊くな。お前の手で回せ」
オルフェンは紙をしまい、鍵を右へ回した。
カチ、と一つ。
カチ、と二つ。
三つ目の音は、鳴らなかった。扉は、それだけで開いた。
オルフェンは、開いた扉を二回ノックした。
「失礼します」
「……誰に言ってる」
「中の方に」
「誰もいないだろ」
「念のためです」
グンソは何か言いかけて、やめた。
「俺はここにいる」
扉の脇の壁にもたれる。
「中のものは、俺は見ない。お前も長居するな」
*
記録庫の中は、乾いていた。港のすぐそばなのに、潮の匂いがしない。古い紙と、乾ききったインクの匂いだけがする。
棚に並ぶ記録には、番号しか振られていなかった。名前のついたものは一冊もない。
三音。警告音。検疫区画。
探すべき言葉を頭の中で並べながら、オルフェンは棚の端から一冊ずつ確かめていった。
開くたびに、知らない港の、知らない日の数字が並んでいる。三度鳴る警告を記した頁は、どこにもなかった。
最後の棚で、番号が一か所だけ途切れていた。
隙間に、白い帳面が差し込まれている。他の記録より、ずっと新しく見えた。
オルフェンは帳面を引き抜き、灯りの下で開いた。
日付。場所。記録者。そして最後の欄に、《次に記録される者》。
一行目の最後の欄には、一文だけが書かれていた。
次に記録されるのは、誰か。
二行目には、名前があった。文字の形ははっきりしているのに、読もうとするとその一行だけが目から遠ざかっていく。
三行目。また、あの一文。
四行目。また、読めない名前。
問い。名前。問い。名前。
ページをめくるたびに、同じ並びが続いていく。
「……訊いた人が、次の行になる」
声に出した瞬間、オルフェンは自分の口を押さえた。
船室で、自分は何を言った。
――誰が書いたんでしょう。
――私ですか。
指先が冷たくなる。それでも、最後のページを開いた。開かないままにしておく方が、ずっと怖かった。
最後の一行は、途中で止まっていた。
記録者の欄に、二文字だけ。
未確
自分の字だった。
ついさっき、船室で《未確認》と書いた。その最初の二文字が、払いの角度まで同じまま、いつからここにあるのか分からない帳面に残っている。
船室で係留鎖の音を三つ目まで数えたのは、自分だった。
オルフェンは、しばらくその二文字を見つめていた。
怖くないわけではなかった。ただ、ここで自分が崩れたら、外で待っている人が中へ入ってきてしまう。
帳面を閉じようと、表紙に手をかけた。
その指先が、棚に当たった。
棚が、軋んだ。
「オルフェン?」
扉の外から、グンソの声がした。
返事をする前に、足音が入ってきた。
*
「どうした、何が――」
グンソは、そこで言葉を切った。
開いたままの帳面を見ていた。
逸らそうとしているのが分かる。首の筋が張っている。それなのに、視線だけが最後の行から離れない。
「グンソさん、見ないでください」
唇が、動いた。
「次に、記録されるのは」
「読まないで!」
「――誰か」
グンソの声ではなかった。グンソの口から出た、帳面の声だった。
――サー……。
音が、すぐ耳元まで来た。
最後の欄に、文字が滲み出す。
一画目。
オルフェンは帳面を閉じようとした。
オルフェンは帳面を閉じた。
オルフェンは、まだ帳面を閉じていない。
閉じない。表紙が、指の下でびくともしない。
二画目が、引かれる。
「……おい」
グンソが自分の胸を押さえていた。
「俺、今、なんて名前だ」
オルフェンは答えようとした。
答えられなかった。
知っている。逃げてきた五人のうちの一人で、船で何度も話した。北へ行くかどうかを、一緒に決めた人だ。声も、顔も、指の震え方も覚えている。
名前だけが、出てこない。
口の中で、空白が形になっていく。
ポケットの紙が、勝手に開いた。
《書き留める》
《帳面を燃やす》
《名前を呼ぶ》
呼べない。呼ぶ名前が、ない。
三画目が、引かれ始める。
その時、グンソの上着から何かが落ちた。
押し花だった。
色の褪せた、小さな花。彼がずっと持ち歩いているもの。逃げてきた日からずっと、手放さなかったもの。
無窮花。
その花の名前を思い出した瞬間、隣にあった名前が一緒に戻ってきた。
「グンソさん!」
帳面の上で、筆が止まった。
「グンソさん」
二度目。
三つ目を誰が数えるのか。今度は、自分で決めた。
「グンソさん」
三度目で、最後の欄の文字が途切れた。
書きかけの一文字だけを残して、インクがそれ以上進まない。
グンソが、その場に膝をついた。
オルフェンは帳面を閉じた。今度は、ちゃんと閉じた。
床の押し花を拾い上げる。花弁の端が一枚、紙のように白く抜けているように見えた。
瞬きをすると、元の色に戻っていた。
見間違いだったのかもしれない。
*
階段の途中で、グンソが言った。
「俺の名前、言えるか」
「グンソさん」
「もう一回」
「グンソさん」
「……次に忘れたら、どうする」
「額に書いておきます」
「それが一番やばいやつだろ」
オルフェンは、二段ほど黙って上った。
「……あ」
「今気づいたのか」
「すみません。本気で言いました」
グンソは、押し花を握ったまま、今度は声を出して笑った。
階段を上りきったところで、オルフェンは足を止めた。
十四段だった。
降りた時より、一段多い。
*
管理者の家は、港から少し離れた坂の上にある。
窓という窓に、青紫の光が滲んでいた。
扉の前に立つと、手を上げるより先に声がした。
「入れ」
部屋の中では、管理者が観測窓の前の机に座っていた。机の上には、昨夜と同じ白紙が一枚。その横に、古い記録が何冊も積まれている。
「何があった」
「三音の記録は、見つかりませんでした」
オルフェンは、まずそれを伝えた。
「代わりに、別のものがありました」
そして、見たことを順に話した。
番号のない帳面。問いと名前が交互に並んでいたこと。問いを口にした者が、次の行になること。書かれ始めると名前が抜けていくこと。三度呼んで、止まったこと。
最後に、記録者の欄に自分の字があったこと。
管理者は、一度も口を挟まなかった。
「名前は」
「まだ、書かれていません」
「そうか」
「そういえば」
グンソが、横から口を挟んだ。
「こいつ、記録庫でノックしてたぞ。誰もいない部屋に」
「グンソさん」
「失礼します、まで言ってた」
管理者は、窓の外を見たまま何も言わなかった。
ただ、口元がほんの少しだけ動いた気がした。
気のせいかもしれない。オルフェンが確かめようとした時には、もういつもの顔に戻っていた。
「顔色が悪い。今夜はもう寝ておけ」
その時、オルフェンのポケットの中で、紙がかすかに鳴った気がした。
――サ……。
オルフェンは、それ以上耳を澄まさなかった。
坂を下りる途中で、グンソが低く言った。
「……落ち着いてるな、あの人」
「管理者さんですから」
オルフェンは答えた。
管理者さんは、一つも聞き返さなかった。それだけ、ちゃんと聞いてくれていたのだと思った。
船に戻り、自分の船室で紙を開く。
次に記録されるのは、
続きは、まだ来ない。
ただ、その後ろの余白に、さっき帳面の上で止まった一文字の跡だけが、薄く残っていた。
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異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-25
―記録者―
グンソは、否定もしなかった。
船室には、船を岸につなぐ係留鎖の音だけが残っている。
一度。
二度。
三度目の音が消えてからも、オルフェンは動かなかった。
机の上には、三枚の紙がある。
ソナの移送時期。
白い車の経路。
三音の警告音が鳴った場所。
そのうち一枚だけが、裏返ったままになっていた。
オルフェンは、紙へ手を伸ばした。
「管理者さんへ報告します」
「持っていくな」
グンソが言った。
迷いのない声だった。
「なぜですか」
「その紙を、船の外へ出すな」
「紙が危険なんですか」
「紙じゃない」
グンソは、裏返った紙を見た。
「書かれたものが、外へ出たがる」
オルフェンの指が止まった。
「分かりません」
「分からなくていい」
「分からないままでは、判断できません」
「判断するな」
グンソは、紙から目を逸らさなかった。
「選ぶな。書くな。名前を与えるな」
その瞬間、紙の上に文字が浮かんだ。
インクが染み出すように、ゆっくりと。
オルフェンは、管理者へ報告するために立ち上がった。
オルフェンは、まだ座っている。
グンソが息を呑んだ。
「……見たか」
「はい」
「まだ立っていない」
「はい」
紙の上で、文字が増えていく。
オルフェンは、紙を持った。
オルフェンは、扉へ向かった。
オルフェンは、名前を呼ばれた。
「読むな」
グンソが言った。
「もう読んでいます」
「読むな!」
グンソが紙を掴もうとする。
だが、指が触れる直前で止まった。
爪の先が、細かく震えている。
オルフェンは、紙を引き寄せた。
そこに、新しい文字が現れた。
《破る》
《燃やす》
《持ち出す》
まるで、選択肢のようだった。
オルフェンは、三つを見比べる。
「どれを選んでも、書かれた通りになるんでしょうか」
「選ぶな」
「では、何もできません」
「何もしない方がいい時もある」
オルフェンは、机の上から筆を取った。
「それは、昨日の管理者さんと同じですね」
グンソが顔を上げる。
「何が」
「分からないものを、分からないまま持って歩けと言われました」
「書くな」
「だから、選びません」
オルフェンは、三つの選択肢の下に筆を置いた。
《未確認》
筆を離した瞬間、船室の中で音がした。
――サー……。
紙の上の《破る》が消えた。
《燃やす》が消えた。
《持ち出す》が消えた。
その下に、新しい文章が浮かぶ。
まだ、信じていない。
オルフェンは、紙を見つめた。
「誰が書いたんでしょう」
グンソは答えなかった。
「私ですか」
沈黙。
紙の端に、黒い染みが広がった。
書いた者ではない。
オルフェンの指先が止まる。
それ以上、文字は増えなかった。
グンソが、かすかに息を吐いた。
「もう訊くな」
「一つだけ、確認します」
「やめろ」
「記憶を掘り返す質問ではありません」
オルフェンは、白い車の経路を記した紙を見た。
「三音が鳴ったのは、車で移動している間ですか」
グンソの顔が強張った。
「……違う」
「車が止まった後ですか」
「分からない」
「どちらに近いですか」
グンソは目を閉じた。
白い壁。
二つの扉。
消毒薬の匂い。
長い鉄の音。
そして、三度の警告。
「車は、止まっていた」
「はい」
「扉が開いた」
「はい」
「ソナが、運ばれた」
グンソの呼吸が乱れる。
「その後だ」
オルフェンの筆が止まった。
「三音は、その後に鳴った」
「そうだ」
「施設へ着いた後」
「分からない」
「でも、車が止まった後です」
グンソは、こめかみを押さえた。
その時、紙の上に文字が浮かんだ。
三音は、移送の途中ではない。
オルフェンは、すぐには書き留めなかった。
「これは、事実ですか」
グンソは答えない。
文字の下に、さらに一行が浮かぶ。
まだ、未確認。
オルフェンは、ゆっくりと息を吐いた。
「訂正された」
「違う」
グンソが言った。
「訂正されたんじゃない」
「では?」
「選ばされたんだ」
船室の外で、誰かが歩いた。
一度。
二度。
オルフェンとグンソは、同時に扉を見た。
三度目の足音は、聞こえなかった。
けれど、扉の向こうから声がした。
「オルフェン」
管理者の声だった。
オルフェンは立ち上がる。
グンソが腕を掴んだ。
「その紙を持っていくな」
「管理者さんが呼んでいます」
「だからだ」
「なぜですか」
グンソは答えなかった。
オルフェンは、紙を折りたたんだ。
「これは、証拠ではありません」
「なら、なぜ持っていく」
「一人で持っていると、いつか信じてしまいそうなので」
グンソの手が、ゆっくり離れる。
オルフェンは、扉を開けた。
廊下には、管理者が立っていた。
いつからそこにいたのか、分からない。
管理者は、オルフェンの手元を見た。
「それを見せろ」
オルフェンは、紙を差し出した。
管理者は触れなかった。
ただ、文字だけを見た。
《未確認》
「三音は、移送中ではありませんでした」
オルフェンが言った。
「そう書かれているな」
「グンソさんの記憶と、紙の記録が一致しました」
「一致したから、正しいと思うのか」
「いいえ」
オルフェンは答えた。
「だから、確認したいんです」
管理者の視線が、紙からオルフェンへ移る。
「何を」
「三音が鳴った施設を」
「場所は分からない」
「はい」
「名前もない」
「はい」
「時期も曖昧だ」
「それでも、移送の途中ではない可能性が出ました」
管理者は、紙へ視線を戻した。
「可能性を、証拠にするな」
「分かっています」
「では、なぜ持ってきた」
「分からないものを、分からないまま見せるためです」
管理者は、しばらく黙っていた。
それから、古い記録庫の鍵を取り出した。
「三音が使われていた施設の記録を探す」
「調べていいんですか?」
「まだ、許可はしていない」
「では、これは」
「調査の入口だ」
管理者は、鍵をオルフェンへ渡した。
「ただし、紙には余計な名前を書くな」
「名前を書くと、どうなるんですか」
管理者は、船室の中にいるグンソへ視線を向けた。
「記録される」
それ以上は言わなかった。
オルフェンは鍵を握りしめた。
紙の裏面に、また一行、文字が浮かんでいる。
次に記録されるのは、誰か。
オルフェンは、それを管理者に見せなかった。
まだ、誰の名前も書かれていない。
だから、まだ戻れる。
そう思った。
その考えが、紙に記録されるまでは。
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異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-24
―再構成―
時間が進んでも、船室の中は暗かった。
天蓋の向こうに朝はない。青紫の光が舷窓の外でゆっくりと明滅している。
船を岸につなぐ係留鎖が軋む。一度。二度。少し間を置いて、また一度。
まるで、船そのものが呼吸をしているようだった。
オルフェンは、机の上に三枚の紙を並べた。
「やりましょう」
「……朝から元気だな」
簡易ベッドに座ったグンソが、片眉を上げる。
「元気なわけではありません。腹を括っただけです」
オルフェンは紙を指で叩いた。
「ソナさんの移送時期。白い車の経路。三音が鳴った場所。この三つが揃わない限り、管理者さんは北方への相談に乗ってくれません」
「昨日も聞いた」
「昨日は聞いただけです。今日は取りに行きます」
オルフェンは、一枚目の紙を引き寄せた。
「まずは、時期から」
「なぜだ」
「一番、記憶が壊れていなさそうだからです」
グンソは鼻を鳴らした。
「壊れていない記憶なんて、あるのか」
「あります。壊れ方が浅いものが」
オルフェンは紙の中央に線を引いた。左に「連行される前」、右に「連行された後」。
「正確な日付はいりません。季節だけでも」
「雪はなかった」
「寒くは?」
「なかった」
「雨は」
「降っていない」
「昼か、夜か」
グンソの指が、膝の上でぴくりと動いた。
「夜だ」
「周りは明るかった?」
「白かった」
「車が?」
「違う」
グンソは目を閉じた。
「壁だ。壁が、白かった」
オルフェンの筆が止まる。
「建物の壁ですか」
「分からない」
「大きさは」
「大きかった」
「扉は」
「二つ」
「白い扉と、黒い扉――」
グンソが、勢いよく顔を上げた。
「なぜ知っている」
「昨夜、そう聞きました」
「……そうだったか」
「ソナさんは、その扉から出てきていない」
オルフェンは、確認するように続けた。
「車の後ろから、でしたね」
グンソの表情が、初めてはっきりと歪んだ。
「なぜ、そこまで覚えている」
「覚えているのは、あなたです。私は書いているだけです」
オルフェンは紙の上で、白い壁の位置を少しだけずらして書き直した。
白い車。白い壁。黒い扉。
「周囲に人は?」
「二人」
「護送員?」
「顔は覚えていない」
「声は」
グンソが、答えを止めた。
沈黙が長い。
――サー……。
紙の上に、微かな音が乗った。
いや、乗ったように聞こえた。
空耳だと思った。
けれど、もう一度。
――サー……。
今度は、はっきりと聞こえた。
音源は、通信機ではない。
紙そのものから聞こえている。
「……今、何か」
「気のせいだ」
グンソの声が、わずかに硬い。
オルフェンは紙を持ち上げ、裏返した。何もない。ただの紙だ。
そっと、机に戻す。
「続けましょう」
「……ああ」
グンソは、通信機のある壁際を、一度だけ見た。
そして、目を逸らした。
「声は」
「聞いていない」
「聞こえなかった、ではなく?」
「聞いていない」
グンソは、明確に言い直した。
「聞かないようにしていた」
「なぜですか」
「聞けば、覚えてしまう」
「覚えることの、何がいけないんですか」
グンソは答えなかった。
代わりに、彼の視線が、また通信機へ向いた。
オルフェンもつられて見る。
電源ランプは、消えている。
けれど――
――ザザ、ザザ、ザ――。
砂粒を撒いたような音が、壁の向こうから滲み出てきた。
オルフェンの背筋を、冷たいものが這い上がる。
これは、遠くから届く音ではない。
すぐそこ、壁一枚の向こうで、誰かがざらざらとした布を擦り合わせているような、そういう近さの音だった。
「グンソさん」
「動くな」
グンソが低く言った。
「音がしても、動くな。見るな。数えるな」
「数える?」
言った瞬間、オルフェンは、自分がすでに数えていることに気づいた。
一つ。
二つ。
――ノイズが止まった。
三つ目を数える前に。
船室が、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。
係留鎖の音すら、聞こえない。
オルフェンは、自分の心臓の音だけを聞いていた。
やけに大きく、やけに速い。
「……止まりましたね」
「止まったんじゃない」
グンソの声は、囁きより小さかった。
「待ってるんだ」
「何を」
「三つ目を、誰が数えるか」
その言葉が終わるより早く、通信機のランプが、真っ赤に灯った。
電源など、入っていないのに。
「――!」
オルフェンが振り向くのと、グンソが飛びついて通信機を掴むのは、ほぼ同時だった。
「止まれ! 消えろ!」
グンソが叫ぶ。素手で殴りつけるように機体を叩く。
火花も、電流も、何も走らない。
それでも、ランプは消えない。
ノイズが、悲鳴のように膨れ上がった。
――ザザザザザザザ――。
その中に、声が混ざる。
複数。
いや、一つの声が、何重にも折り重なって聞こえているだけかもしれない。
……しろ。
……戻すな。
……記録者。
……見つけた。
最後の一言だけ、はっきりと、船室の空気を震わせて響いた。
オルフェンの手足から、力が抜けかけた。
恐怖ではない。
もっと生理的な、“見られている”という感覚だった。
「グンソさん、これは――」
「知らない!」
グンソが怒鳴った。振り返った顔は、汗と、それだけではない何かで濡れていた。
「知らないと言っている。知らない、知らない――」
繰り返すたびに、声が小さくなっていく。
まるで、自分に言い聞かせて、記憶に蓋をしようとしているようだった。
甲板の上を、何かが駆け抜ける音がした。
一度。
二度。
――そして、三度目。
その足音が、船室の扉の真ん前で、ぴたりと止まった。
オルフェンとグンソは、同時に扉を見た。
ノブが、ゆっくりと回る。
誰もいないはずの、廊下から。
「……開けるな」
グンソが、震える声で言った。
オルフェンは、答えられなかった。
ノブは、回り切ったところで――止まった。
扉は、開かなかった。
通信機のランプが、ふっと消える。
ノイズも、声も、一瞬で消えた。
まるで、最初から何もなかったかのように。
船室に、係留鎖の音が戻ってくる。
一度。
二度。
三度。
三つ目を数えたのが自分だと気づいたのは、音が消えてからだった。
グンソは、その場に崩れるように座り込んだ。
肩で息をしている。
「……グンソさん」
「悪い」
「なぜ、謝るんですか」
「巻き込んだ」
グンソは、床を見たまま言った。
「お前を、あっち側に近づけた」
「あっち側とは」
グンソは床を見たまま、震える指で、自分のこめかみを叩いた。
「ここに、何かが埋まってる」
「記憶、ではなく?」
「記憶なら、俺のものだ」
グンソは、初めて、まっすぐにオルフェンを見た。
「これは、俺のものじゃない」
その時だった。
机の上、三枚の紙のうち一枚だけが、風もないのに、ひとりでにめくれ上がった。
三音の警告音が鳴った場所を記す紙だった。
裏面に、見覚えのない筆跡で、一行だけ。
聞いた者を、記録者とする。
インクは、まだ乾いていないように見えた。
指で触れれば、滲むのではないかと思うほどに。
オルフェンは、触れなかった。
「……いつ、書かれたんでしょう」
返事はなかった。
オルフェンも、それ以上は訊けなかった。
紙にも、何も書けなかった。
船室の外で、係留鎖が鳴る。
今度は、数えなかった。
やがて、オルフェンが口を開いた。
「一つだけ、分かったことがあります」
「……何だ」
「今日の調査対象は、時期でも、車でも、音でもありませんでした」
オルフェンは、裏返った紙をそっと重ねた。
「あなたです、グンソさん」
グンソは、何も言わなかった。
否定も、しなかった。
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異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-23
―未確認―
港の夜は、まだ終わっていなかった。
荷を運び終えた台車が、濡れた石畳の上で止まっている。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑い、誰かが扉を閉める。
普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。
オルフェンは、その中を一人で歩いていた。
船室を出てから、何度も足を止めそうになった。
グンソは、もう何も話せない顔をしていた。
それでも、オルフェンは言った。
戻ります。
言った以上、戻らなければならない。
問題は、戻ったところで何を話せばいいのか分からないことだった。
チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。
妹の名前。
白い車。
消毒薬の匂い。
何度も沈む床。
長い鉄の音。
三度鳴る警告音。
それだけだった。
それだけしかないのに、グンソは十年近く、その断片だけを抱えて生きてきた。
オルフェンは、管理者の部屋の前で立ち止まった。
青紫の灯りが、廊下の床を細く照らしている。壁面の観測端末には、港の各所から送られてくる数値が流れていた。
扉を叩こうとした、その時だった。
「入れ」
オルフェンは、手を止めた。
「起きていらしたんですか?」
「お前の足音が、三度止まった」
「三度も止まりましたか」
「迷っていた時間を含めれば、もっと多い」
オルフェンは、小さく息を吐いた。
「……失礼します」
部屋の中には、港を見下ろす観測窓があった。
天蓋の空は、青紫色に揺らめいている。雲はない。雨もない。ただ、空の内側だけが、遠い海のように明滅していた。
管理者は机の前に座っていた。
机上には、何も書かれていない紙が一枚置かれている。
「報告か」
「相談です」
「同じことだ」
「では、報告を兼ねた相談です」
「話せ」
オルフェンは、グンソから聞いたことを、一つずつ伝えた。
北方人民共和国。
一千年近く続いている国家。
何度崩されても、別の形になって残り続けた国。
地図に載らない村。
偽の救助所。
本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる道。
そして、ソナの記憶。
白い車。
消毒薬の匂い。
舗装されていない道を走る車体。
何度も沈む床。
橋を渡る感覚。
長い鉄の音。
三度鳴る警告音。
オルフェンが話し終えても、管理者はすぐには口を開かなかった。
室内には、観測端末の駆動音だけが残った。
「その男の証言を、どこまで信用する」
「分かりません」
オルフェンは正直に答えた。
「信用していないわけではありません。ただ、見たものすべてを正確に説明できているとも思いません」
「恐怖は、記憶の順番を変える」
「はい」
「逃げた人間は、見捨てた村を“消えた”と語ることもある」
「はい」
「警告音も、北方の合図とは限らない。鉄道かもしれない。工場かもしれない。古い港の警報かもしれない」
「はい」
「それでも調べたいのか」
オルフェンは、机の上の白紙を見た。
「はい」
「理由は」
「ソナさんが、まだ人間として扱われているかどうかを確認したいからです」
管理者の視線が、初めてわずかに動いた。
「救出ではなく?」
「救出できるなら、その方がいいです」
オルフェンは、言葉を選びながら続けた。
「でも、最初から救出だと決めてしまうと、見落とすものがある気がします」
「何を」
「彼女が、もう名前を失っているのかどうかを」
白紙の上には、まだ何も書かれていない。
番号も、場所も、施設名もない。
グンソが覚えていたのは、記録から消された妹の名前と、途切れた感覚だけだった。
「ソナさんは、保護対象として連れていかれた」
「そう聞いた」
「でも、保護されたのか、収容されたのか、それすら分かりません」
「言葉が違うだけで、同じ場所へ送られることもある」
オルフェンは、黙った。
管理者は、机の引き出しから数枚の記録を取り出した。
「三度の警告音について、過去の観測記録を確認した」
「もう調べてくださったんですか?」
「確認しただけだ」
一枚目の紙には、港湾施設の警報形式が並んでいた。
短音一回。
長音二回。
連続音。
その中に、三音を一組として繰り返す形式があった。
「この音は、かつて複数の施設で使われていた」
「北方人民共和国のものですか?」
「違う」
管理者は即答した。
「北方だけのものではない。古い検疫区画、隔離施設、軍用港。危険区域への接近を知らせるために、各地で使われていた」
「では、三音だけでは何も分からない」
「何も分からないわけではない」
管理者は、記録の一部を指で押さえた。
「この形式は、現在ほとんど使われていない」
「ほとんど?」
「最後に使用された記録は、三十七年前だ」
オルフェンは、その日付を見た。
ソナが連れていかれた時期とは、まだ大きく離れている。
「同じ音が、その後も使われていた可能性は?」
「ある。ただし、記録がない」
「記録がないというのは」
「使われていないのか、記録されなかったのか、消されたのか。区別できない」
管理者は、別の紙を重ねた。
そこには、北方へ続くいくつかの経路が記されていた。
どの線も、途中で途切れている。
「北方人民共和国へ向かう道は、地図に描かれていないのではない」
「違うんですか?」
「描かれた後で、意味を失う」
オルフェンは、地図を見下ろした。
「道が消える?」
「道は消えない。道の先にあるものが、別のものへ置き換わる」
「村が、ですか」
「村。救助所。検問所。国境」
管理者は、淡々と続けた。
「その場所が本当に存在するのか。誰が管理しているのか。そこで渡される名前が本物なのか。入った人間は、出た後も同じ人間なのか」
オルフェンは、言葉を失った。
「北方人民共和国は、壁で閉じた国ではない」
管理者の目が、地図の白い部分へ向く。
「入れる。出られる。道もある。案内人もいる」
「それなら、なぜ」
「入った人間が、入ったことを証明できなくなるからだ」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
オルフェンは、受け取った記録を見た。
名前。
番号。
施設の印。
しかし、そのどれもが途中で途切れている。
「管理者さん」
「何だ」
「もし、ソナさんがその国の中にいるとして」
「仮定だ」
「はい。もし、いるとして。彼女の名前が残っている可能性はありますか?」
管理者は、すぐには答えなかった。
「名前は、最初に消される」
「……」
「年齢、出身、血縁。次に消えるのは、歌った記録だ」
オルフェンは、ゆっくりと拳を握った。
「それでも、何か残ることは」
「残る」
管理者は、白紙の上へ視線を落とした。
「記録する人間がいる限りは」
その言葉に、オルフェンはグンソの姿を思い出した。
紙の上に、妹の名前を書いた。
番号へ戻さずに。
「では、探す方法はあります」
「方法ではない」
「入口ですか」
「入口を探すための、断片だ」
管理者は、記録を三つに分けた。
「ソナの移送時期」
一枚目。
「白い車の所属、または移送に使われた経路」
二枚目。
「三音の警告音が鳴った場所」
三枚目。
「この三つが必要だ」
「三つが揃えば、北方へ入る方法を教えてくださいますか?」
「教えるとは言っていない」
「はい」
「相談には乗る」
「はい」
オルフェンは、少しだけ困ったように笑った。
「かなり厳しい条件ですね」
「妹を探しに行くのだろう」
「はい」
「なら、厳しくて当然だ」
オルフェンは立ち上がった。
「グンソさんに、もう一度訊いてきます」
「訊くな」
「え?」
「今夜は、もう訊くな」
オルフェンの手が止まった。
「ですが、移送時期が分からないと」
「十年近く抱えていた記憶を、港へ着いたばかりの夜に掘り返すな」
「……はい」
「人間は、記憶を話すたびに、その記憶を少しずつ作り替える」
管理者は、紙の上に並んだ項目を見つめた。
「今夜の彼から、これ以上の正確さを引き出そうとするな」
オルフェンは、しばらく黙っていた。
「では、まず三音を調べます」
「そうしろ」
「どこから?」
管理者は、古い記録を一枚だけ抜き取った。
「港の外れに、使われていない観測塔がある」
「観測塔」
「かつて、船舶と検疫区画の警告音を記録していた」
「今も使えるんですか?」
「使えるかどうかを調べる」
管理者は、紙をオルフェンへ渡した。
「音を調べろ」
オルフェンは、紙を受け取った。
「ありがとうございます」
「礼を言われることはしていない」
「でも、調べていいと言ってくださったので」
「調べるだけだ」
「はい」
オルフェンは扉へ向かった。
「管理者さん」
「何だ」
「もし、三つの条件が揃わなかったら」
管理者は、窓の外を見た。
青紫の空が、遠くで一度だけ明滅している。
「未確認のものを、確認できなかったという理由だけで、存在しないことにするな」
オルフェンは黙って聞いていた。
「ただし、存在すると決めつけるな」
「はい」
「分からないまま、両方を持って歩け」
オルフェンは、わずかに微笑んだ。
「難しいですね」
「簡単だと思っていたのか」
「思っていません」
「なら、行け」
「はい」
オルフェンが部屋を出る。
扉が閉じると、管理者は一人になった。
机の上には、三音の警告記録と、名前のない白紙が残っている。
管理者は、さらに奥から一枚の記録を取り出した。
北方人民共和国へ向かった調査隊。
出発者、十二名。
帰還者、なし。
死亡記録、なし。
最後の報告から、二百三十一年。
記録の末尾には、短い文章が残されていた。
帰還者は、帰還したことを証明できなかった。
管理者は、紙を裏返した。
裏面には、別の筆跡で、さらに短い言葉が書かれている。
三度鳴った。
管理者は、港の方へ顔を向けた。
警告鐘が鳴る。
短く三度。
間を置いて、三度。
管理者は、その音を聞き終えるまで、立ち上がらなかった。
机の上の白紙には、まだ何も書かれていない。
チェ・ソナ。
その名前も、まだ。
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Rain Konno | 境界の外側 retweeted
異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-22
―航路未定―
押し花の花弁は、何年も前に枯れている。それでも、色だけは失っていなかった。
グンソは、机の上の無窮花を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。
船室の外では、港の生活音が続いている。荷を運ぶ台車。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑っている。普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。
その時、港の奥で警告鐘が鳴った。
短く三度。
グンソの肩が跳ねた。手が、外套の内側へ伸びる。
オルフェンは気づいたが、何も言わなかった。言うより先に、グンソが口を開いた。
「聞くな」
「……はい」
鐘は、もう一度だけ鳴った。三度。間を置いて、三度。
グンソの指が、押し花を握りつぶしそうになっている。
オルフェンは、その手には触れなかった。代わりに机の上から紙を一枚取り、端だけを持って、花を包める形に折った。
「しまうなら、こちらを使ってください」
「触らないのか」
「大切なものに、勝手に触れてはいけないと思いますので」
グンソは、しばらくオルフェンを見ていた。それから自分の手で、押し花を紙の中へ戻した。オルフェンは、包み終わるまで待った。
「北方の音だ」
グンソが言った。
「警告鐘が、ですか」
「三度鳴る。少し間を置いて、また三度」
「同じ音ですか」
「似ているだけだ」
「では、同じではない」
グンソは答えなかった。紙に包まれた無窮花を、外套の内側へしまう。
「北方では、音にも意味がある。誰が聞いたか。どこで鳴ったか。何回鳴ったか。それで、人間の扱いが変わる」
「今の鐘は」
「港の警告だろう」
「北方とは関係ない」
「そうだ」
グンソは、自分の手を見た。
「だから、余計に怖い」
オルフェンは、少しだけ目を伏せた。それから、机の上の記録へ視線を戻す。
「ソナさんの居場所は、分かりません」
「……ああ」
「私も、正確な場所は知りません」
「資料を持っていたのに?」
「資料に書かれているのは、処置の記録と、収容された可能性だけです」
オルフェンは、書類筒から一枚の紙を取り出した。名前の代わりに、番号が並んでいる。
A-12。
B-07。
C-03。
紙の端には、赤い線が引かれていた。
「場所は」
「記載されていません」
「施設名は」
「ありません」
「担当者は」
「ありません」
グンソは、紙を見下ろした。
「それが北方の記録だ」
「はい」
「分からないのではない」
紙の端を、指で叩く。
「分からないようにされている」
オルフェンは、静かに頷いた。
「そうですね」
簡単には、否定しなかった。
グンソが航路図を引き寄せる。アルトリウスから北へ伸びる線。いくつもの国境線。記録の途切れた地域。その先には、広大な白紙が広がっていた。
「北方人民共和国は、建国からおよそ一千年になる」
鉛筆が、地図の上をゆっくり移動する。王朝が変わり、軍が国を握り、革命が起き、旗も支配者も入れ替わった土地を、線がなぞっていく。
「それでも国は残った」
「なぜですか」
「崩れるたびに、別の形になるからだ」
鉛筆が、国境線の上で止まった。
「城壁を壊せば地下へ逃げる。地下を塞げば山へ移る。王を殺せば別の王を立てる。軍を倒せば、記録官が新しい軍を作る」
「国家そのものが、逃げる」
「違う」
グンソは、オルフェンを見た。
「逃げた人間を、国家の中へ戻す」
鉛筆の先が、白紙の手前で止まった。
「この辺りに、村がある」
「地図には」
「載っていない。実在もしていない」
オルフェンは、口を挟まなかった。
「三年前だ。俺たちは、そこで飯を食った」
鉛筆が、白紙をわずかに掻いた。
「屋根があって、井戸があって、子どもが走っていた。年寄りが、南から来たのかと訊いた」
「答えたんですか」
「頷いた。一度だけだ」
グンソは、鉛筆を置いた。
「その晩、村の半分が消えた。家も、井戸も、子どもも。朝には草地に戻っていた」
「……人は」
「ソンミンが気づいて、五人で夜通し走った」
それ以上は言わなかった。
「道路標識が違う。川の流れが違う。村人の言葉も違う。それでも、全部偽物だ」
「見分ける方法は」
グンソは首を振った。
「本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる」
「三度」
「俺たちは二度で気づいた。運が良かっただけだ」
オルフェンは、地図を見つめた。
「北へ向かえば、見つかる可能性が――」
「北へ行けば見つかるわけじゃない」
グンソが遮った。
「北へ向かう道そのものが、罠だ」
オルフェンは、すぐに言葉を止めた。
「……そうですね。すみません。私は、まだ何も知りませんでした」
指先で、地図の白紙部分をなぞる。
「では、北へ行く方法ではなく、北へ行かない方法から考えます」
「どういう意味だ」
「偽の村へ入らない。偽の救助所へ行かない。記録に書かれた道を、そのまま信じない」
「それだけでは、どこにも進めない」
「そうですね」
「進めないぞ」
「では、進めないことを前提に考えます」
「前提にするのか」
「はい」
オルフェンは、少しだけ眉を下げた。
「進めると思い込んで捕まるより、進めない場所を一つずつ避けた方が、たぶん長く生きられます」
グンソは、初めてわずかに口元を緩めた。
「勇者らしくない」
「よく言われます」
「褒めていない」
「それも、よく言われます」
短い間があった。それきり、どちらも笑わなかった。
グンソが、外套の内側へ手を入れる。
「ソナが保護施設へ送られたことだけは、確かだ」
短い沈黙があった。
「それ以外は、何も」
さらに短い沈黙があった。
「今、生きているのかも」
オルフェンは、黙って聞いた。
グンソは、目を伏せた。
「覚えているのは、白い車だけだ」
「車両番号は」
「見えなかった」
「護送員の顔は」
「覚えていない」
「他には」
「……消毒薬の匂い」
オルフェンは、紙へ書き留める。
「それから、床の振動」
「振動」
「舗装された道を走っていなかった。何度も沈んだ。橋を渡った。長い鉄の音がした」
「線路ですか」
グンソは、首を振った。
「音は」
「警告音。三度鳴って、少し間があって、また三度」
オルフェンの筆が止まった。
「さっきの鐘と同じですね」
「似ているだけだ」
「はい」
オルフェンは、断定しなかった。ただ、その横に小さく記録した。
《三音。要確認》
「他には、何か」
返事はなかった。
顔を上げて、オルフェンは初めて、自分が何をしていたのかに気づいた。
紙の上には、匂いと、振動と、音が並んでいる。妹が連れていかれた夜が、そのまま項目になっていた。
オルフェンは、筆を置いた。
「……すみません。訊き方が悪かったです」
「構わない」
「構いません」
言ってから、続きを探した。見つからなかった。
「必ず見つかります、と言いかけました」
「言えばいい」
「言えません」
オルフェンは、自分の手元を見た。指が、わずかに強張っている。
「私は、まだ何も知らないので」
グンソは、答えなかった。
「それだけで、見つけられると思うか」
しばらくして、そう訊いた。
「それだけでは難しいと思います」
「では、何になる」
「探すための入口です」
グンソは、紙を見た。
名前。年齢。番号。消毒薬。白い車。鉄の音。三度の警告。
場所はない。施設名もない。
それでも、何もないわけではなかった。
「お前は、怖くないのか」
「怖いですよ」
オルフェンは、あっさり答えた。
「北方人民共和国へ入ることも。ソナさんを見つけられないことも。途中で捕まることも」
「それでも行くのか」
「怖いから、行かないという理由にはなりません」
紙を、丁寧に畳む。
「怖くないふりをすると、危険な場所を見落としそうなので」
「怖いまま行くのか」
「怖いまま考えます」
「考えて、どうにかなるか」
「どうにもならないこともあります」
オルフェンは、畳んだ紙の角を揃えた。
「でも、どうにかなるかもしれないことまで、最初から諦めたくはありません」
グンソは、押し花の包みを見た。
「管理者を信用しているのか」
「ええ。少なくとも、私が知る限り、この世界で最も信頼できるお方です」
「助けてくれると思うか」
「助けてくださるかどうかは、まだ分かりません」
グンソの目が細くなる。
オルフェンは、すぐに首を振った。
「信用できないという意味ではありません。私たちが、まだ助けを求めるための材料を持っていない、という意味です」
机の上には、名前と、断片的な記憶しかない。場所もない。経路もない。敵の配置も、罠の仕組みも見えていない。
「これで助けを求めに行くのは、少し失礼かもしれません」
「なぜ」
「管理者さんは、分からないものを分からないままにしない方なので」
オルフェンは、記録をまとめた。
「分からないことも、分からないまま持っていきます」
「それでいいのか」
「はい」
「なぜ」
「嘘をついて、分かったふりをするよりは」
紙を胸元へしまう。
「きっと、ずっといいです」
グンソは、しばらく彼を見ていた。
「管理者に会うのか」
「はい」
「何を話す」
「北方人民共和国へ入る方法を相談します」
「許可が出なかったら」
「困ります」
「それだけか」
「かなり困ります」
オルフェンは、真剣な顔で答えた。あまりに素直な返事に、グンソは思わず息を吐いた。
「お前は、本当に勇者なのか」
「私も、時々そう思います」
オルフェンは、扉へ向かった。
「ここで待っていてください」
「戻るのか」
「戻ります」
「約束できるのか」
オルフェンは、扉の前で振り返った。
「約束は、守れる人間だけがするものではありません」
グンソが黙る。
「守ろうとする人間も、していいものだと思います」
扉に手をかけて、一拍だけ、そのまま止まった。
それから開けた。港の冷たい空気が、船室へ流れ込んでくる。
オルフェンは外へ出た。扉が閉じる直前、グンソが呼び止める。
「オルフェン」
「はい」
「もし、見つからなかったら」
オルフェンは、少しだけ考えた。
「見つからなかった時に、考えましょう」
「今は考えないのか」
「今は、見つける方法を考えたいので」
グンソは、何も言わなかった。
オルフェンは、最後にもう一度だけ微笑んだ。そして、港の青紫の灯りの中へ歩いていった。
船室に残されたグンソは、机の上の記録を見つめた。
チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。
その名前の下には、まだ何も書かれていない。
それでも、初めて誰かが、その名前を番号へ戻さずに記録した。
グンソは、無窮花の包みを、紙の上へ置いた。
北方人民共和国。一千年を生き延びた国家。何度崩されても形を変え、どの国にも、どの軍にも、完全には倒されなかった国。
そのどこかに、妹がいる。
地図はない。道もない。名前と、消毒薬の匂いと、三度鳴る警告音だけが残っている。
港の外で、警告鐘が鳴った。
短く三度。
グンソは顔を上げた。
今度は、逃げなかった。
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【オタクへ。まだ名前のない歌姫を、ネオアキバへ。】
これからアイドルを目指す人。
もう一度、本気でステージに立ちたい人。
異世界アイドル☆パラレルパレードは、
新たな歌姫を探すオーディションを開始します。
ここで選ばれるのは、
完成された誰かのコピーではありません。
あなたにしかない声。
あなたにしかない表現。
あなたにしか語れない物語。
それを持って、ネオアキバへ来てください。
新人が加入する。
それは、今いるメンバーの立場が変わるということです。
立ち位置が変わる。
担当が変わる。
出演機会が変わる。
場合によっては、主役の座を奪われる。
パラパレのオーディションは、
「新人だから大切に育てます」だけの企画ではありません。
可愛いだけでは、ネオアキバには立てない。
歌が上手いだけでも、
ダンスが踊れるだけでも、
アイドル経験があるだけでも足りない。
必要なのは、あなたにしかない世界線。
あなたにしか歌えない理由。
そして、現在のメンバーから立場を奪ってでも、
パラパレの次の物語を担う覚悟です。
現メンバーより魅力があるなら、
遠慮なく立ち位置を奪ってください。
新人だから守られる場所ではありません。
加入したから安泰な場所でもありません。
自分の弱さを、表現に変えられる人。
誰かの真似ではなく、自分の名前で勝負したい人。
ファンに応援されるのを待つのではなく、
自分の力でファンを増やせる人。
あなたの世界線を、見せてください。
━━━━━━━━━━━━━━
異世界アイドル☆パラレルパレード
新規歌姫召喚計画
― あなたの世界線を、ネオアキバへ。―
【募集部門】
◆ 即戦力歌姫枠
歌唱・ダンス・ライブ経験者
◆ 未経験歌姫枠
経験不問。個性と成長性を重視
◆ 異端召喚枠
既存のアイドル像に収まらない人
◆ 推薦召喚枠
ファン・友人・関係者からの推薦応募
「この子をパラパレに入れたい」
そう思う人がいるなら、本人にこの投稿を届けてください。
【応募資格】
・年齢不問(30歳程度までを目安)
・未経験者、経験者ともに応募可能
・特定の芸能事務所等に所属していない方
・未成年者は保護者の同意が必要
・ライブ、レッスン、特典会、SNS活動に継続して参加できる方
・パラパレの活動方針と世界観を理解し、守れる方
【応募内容】
・氏名または活動名
・年齢
・居住地域
・身長
・活動歴
・自己紹介
・歌唱またはパフォーマンス動画
・顔写真、全身写真
・応募理由
・「自分が失ったもの」
・「最後まで捨てられないもの」
・「パラパレで何を壊したいか」
スマートフォンで撮影した動画でも構いません。
綺麗に作られた動画より、
あなたが何者なのか伝わる動画を送ってください。
【審査について】
書類・動画審査の後、
歌唱、ダンス、表現力、即興対応、トーク、ファン対応、時間意識、継続力を総合的に審査します。
審査では、急な立ち位置変更、初見曲、即興MC、予定変更への対応など、当日課題を行う場合があります。
なぜなら、アイドル活動は、
いつも予定通りに進むものではないからです。
厳しい指摘を受けたとき、
逃げるのか。
黙るのか。
人のせいにするのか。
それとも、もう一度立てるのか。
パラパレは、そこを見ます。
なお、審査費・応募費は無料です。
【合格後について】
合格者は、全員が即正規メンバーになるわけではありません。
歌姫候補生、研修生、準レギュラー、正規メンバー。
活動状況と適性に応じて、段階的に昇格します。
加入後も、立ち位置や役割が変わる可能性があります。
既存メンバーにも、
新人にも、
加入しただけで保証される場所はありません。
パラパレを強くする人が、
次のステージへ進みます。
オタクは、完成されたアイドルを探すだけではない。
まだ誰にも見つかっていない歌姫を、
最初に見つけることもできる。
あなたが見つけた人を、
ネオアキバへ送り込んでください。
応募期間:
2026年8月25日(火)〜9月20日(日)23:59
応募方法:
異世界アイドル☆パラレルパレード公式XのDMへ、必要事項を送信してください。
※審査通過者には、後日詳細をご連絡します。
※未成年者は保護者の同意が必要です。
#パラパレ新歌姫
#ネオアキバ召喚計画
#アイドルオーディション
異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-22
―航路未定―
押し花の花弁は、何年も前に枯れている。それでも、色だけは失っていなかった。
グンソは、机の上の無窮花を見つめたまま、長いあいだ動かなかった。
船室の外では、港の生活音が続いている。荷を運ぶ台車。水面を擦る係留鎖。遠くで交わされる作業員の声。誰かが笑っている。普通の人間が、普通の夜を過ごしている音だった。
その時、港の奥で警告鐘が鳴った。
短く三度。
グンソの肩が跳ねた。手が、外套の内側へ伸びる。
オルフェンは気づいたが、何も言わなかった。言うより先に、グンソが口を開いた。
「聞くな」
「……はい」
鐘は、もう一度だけ鳴った。三度。間を置いて、三度。
グンソの指が、押し花を握りつぶしそうになっている。
オルフェンは、その手には触れなかった。代わりに机の上から紙を一枚取り、端だけを持って、花を包める形に折った。
「しまうなら、こちらを使ってください」
「触らないのか」
「大切なものに、勝手に触れてはいけないと思いますので」
グンソは、しばらくオルフェンを見ていた。それから自分の手で、押し花を紙の中へ戻した。オルフェンは、包み終わるまで待った。
「北方の音だ」
グンソが言った。
「警告鐘が、ですか」
「三度鳴る。少し間を置いて、また三度」
「同じ音ですか」
「似ているだけだ」
「では、同じではない」
グンソは答えなかった。紙に包まれた無窮花を、外套の内側へしまう。
「北方では、音にも意味がある。誰が聞いたか。どこで鳴ったか。何回鳴ったか。それで、人間の扱いが変わる」
「今の鐘は」
「港の警告だろう」
「北方とは関係ない」
「そうだ」
グンソは、自分の手を見た。
「だから、余計に怖い」
オルフェンは、少しだけ目を伏せた。それから、机の上の記録へ視線を戻す。
「ソナさんの居場所は、分かりません」
「……ああ」
「私も、正確な場所は知りません」
「資料を持っていたのに?」
「資料に書かれているのは、処置の記録と、収容された可能性だけです」
オルフェンは、書類筒から一枚の紙を取り出した。名前の代わりに、番号が並んでいる。
A-12。
B-07。
C-03。
紙の端には、赤い線が引かれていた。
「場所は」
「記載されていません」
「施設名は」
「ありません」
「担当者は」
「ありません」
グンソは、紙を見下ろした。
「それが北方の記録だ」
「はい」
「分からないのではない」
紙の端を、指で叩く。
「分からないようにされている」
オルフェンは、静かに頷いた。
「そうですね」
簡単には、否定しなかった。
グンソが航路図を引き寄せる。アルトリウスから北へ伸びる線。いくつもの国境線。記録の途切れた地域。その先には、広大な白紙が広がっていた。
「北方人民共和国は、建国からおよそ一千年になる」
鉛筆が、地図の上をゆっくり移動する。王朝が変わり、軍が国を握り、革命が起き、旗も支配者も入れ替わった土地を、線がなぞっていく。
「それでも国は残った」
「なぜですか」
「崩れるたびに、別の形になるからだ」
鉛筆が、国境線の上で止まった。
「城壁を壊せば地下へ逃げる。地下を塞げば山へ移る。王を殺せば別の王を立てる。軍を倒せば、記録官が新しい軍を作る」
「国家そのものが、逃げる」
「違う」
グンソは、オルフェンを見た。
「逃げた人間を、国家の中へ戻す」
鉛筆の先が、白紙の手前で止まった。
「この辺りに、村がある」
「地図には」
「載っていない。実在もしていない」
オルフェンは、口を挟まなかった。
「三年前だ。俺たちは、そこで飯を食った」
鉛筆が、白紙をわずかに掻いた。
「屋根があって、井戸があって、子どもが走っていた。年寄りが、南から来たのかと訊いた」
「答えたんですか」
「頷いた。一度だけだ」
グンソは、鉛筆を置いた。
「その晩、村の半分が消えた。家も、井戸も、子どもも。朝には草地に戻っていた」
「……人は」
「ソンミンが気づいて、五人で夜通し走った」
それ以上は言わなかった。
「道路標識が違う。川の流れが違う。村人の言葉も違う。それでも、全部偽物だ」
「見分ける方法は」
グンソは首を振った。
「本当の国境へ着くまでに、三度、国境を越えたと思わされる」
「三度」
「俺たちは二度で気づいた。運が良かっただけだ」
オルフェンは、地図を見つめた。
「北へ向かえば、見つかる可能性が――」
「北へ行けば見つかるわけじゃない」
グンソが遮った。
「北へ向かう道そのものが、罠だ」
オルフェンは、すぐに言葉を止めた。
「……そうですね。すみません。私は、まだ何も知りませんでした」
指先で、地図の白紙部分をなぞる。
「では、北へ行く方法ではなく、北へ行かない方法から考えます」
「どういう意味だ」
「偽の村へ入らない。偽の救助所へ行かない。記録に書かれた道を、そのまま信じない」
「それだけでは、どこにも進めない」
「そうですね」
「進めないぞ」
「では、進めないことを前提に考えます」
「前提にするのか」
「はい」
オルフェンは、少しだけ眉を下げた。
「進めると思い込んで捕まるより、進めない場所を一つずつ避けた方が、たぶん長く生きられます」
グンソは、初めてわずかに口元を緩めた。
「勇者らしくない」
「よく言われます」
「褒めていない」
「それも、よく言われます」
短い間があった。それきり、どちらも笑わなかった。
グンソが、外套の内側へ手を入れる。
「ソナが保護施設へ送られたことだけは、確かだ」
短い沈黙があった。
「それ以外は、何も」
さらに短い沈黙があった。
「今、生きているのかも」
オルフェンは、黙って聞いた。
グンソは、目を伏せた。
「覚えているのは、白い車だけだ」
「車両番号は」
「見えなかった」
「護送員の顔は」
「覚えていない」
「他には」
「……消毒薬の匂い」
オルフェンは、紙へ書き留める。
「それから、床の振動」
「振動」
「舗装された道を走っていなかった。何度も沈んだ。橋を渡った。長い鉄の音がした」
「線路ですか」
グンソは、首を振った。
「音は」
「警告音。三度鳴って、少し間があって、また三度」
オルフェンの筆が止まった。
「さっきの鐘と同じですね」
「似ているだけだ」
「はい」
オルフェンは、断定しなかった。ただ、その横に小さく記録した。
《三音。要確認》
「他には、何か」
返事はなかった。
顔を上げて、オルフェンは初めて、自分が何をしていたのかに気づいた。
紙の上には、匂いと、振動と、音が並んでいる。妹が連れていかれた夜が、そのまま項目になっていた。
オルフェンは、筆を置いた。
「……すみません。訊き方が悪かったです」
「構わない」
「構いません」
言ってから、続きを探した。見つからなかった。
「必ず見つかります、と言いかけました」
「言えばいい」
「言えません」
オルフェンは、自分の手元を見た。指が、わずかに強張っている。
「私は、まだ何も知らないので」
グンソは、答えなかった。
「それだけで、見つけられると思うか」
しばらくして、そう訊いた。
「それだけでは難しいと思います」
「では、何になる」
「探すための入口です」
グンソは、紙を見た。
名前。年齢。番号。消毒薬。白い車。鉄の音。三度の警告。
場所はない。施設名もない。
それでも、何もないわけではなかった。
「お前は、怖くないのか」
「怖いですよ」
オルフェンは、あっさり答えた。
「北方人民共和国へ入ることも。ソナさんを見つけられないことも。途中で捕まることも」
「それでも行くのか」
「怖いから、行かないという理由にはなりません」
紙を、丁寧に畳む。
「怖くないふりをすると、危険な場所を見落としそうなので」
「怖いまま行くのか」
「怖いまま考えます」
「考えて、どうにかなるか」
「どうにもならないこともあります」
オルフェンは、畳んだ紙の角を揃えた。
「でも、どうにかなるかもしれないことまで、最初から諦めたくはありません」
グンソは、押し花の包みを見た。
「管理者を信用しているのか」
「ええ。少なくとも、私が知る限り、この世界で最も信頼できるお方です」
「助けてくれると思うか」
「助けてくださるかどうかは、まだ分かりません」
グンソの目が細くなる。
オルフェンは、すぐに首を振った。
「信用できないという意味ではありません。私たちが、まだ助けを求めるための材料を持っていない、という意味です」
机の上には、名前と、断片的な記憶しかない。場所もない。経路もない。敵の配置も、罠の仕組みも見えていない。
「これで助けを求めに行くのは、少し失礼かもしれません」
「なぜ」
「管理者さんは、分からないものを分からないままにしない方なので」
オルフェンは、記録をまとめた。
「分からないことも、分からないまま持っていきます」
「それでいいのか」
「はい」
「なぜ」
「嘘をついて、分かったふりをするよりは」
紙を胸元へしまう。
「きっと、ずっといいです」
グンソは、しばらく彼を見ていた。
「管理者に会うのか」
「はい」
「何を話す」
「北方人民共和国へ入る方法を相談します」
「許可が出なかったら」
「困ります」
「それだけか」
「かなり困ります」
オルフェンは、真剣な顔で答えた。あまりに素直な返事に、グンソは思わず息を吐いた。
「お前は、本当に勇者なのか」
「私も、時々そう思います」
オルフェンは、扉へ向かった。
「ここで待っていてください」
「戻るのか」
「戻ります」
「約束できるのか」
オルフェンは、扉の前で振り返った。
「約束は、守れる人間だけがするものではありません」
グンソが黙る。
「守ろうとする人間も、していいものだと思います」
扉に手をかけて、一拍だけ、そのまま止まった。
それから開けた。港の冷たい空気が、船室へ流れ込んでくる。
オルフェンは外へ出た。扉が閉じる直前、グンソが呼び止める。
「オルフェン」
「はい」
「もし、見つからなかったら」
オルフェンは、少しだけ考えた。
「見つからなかった時に、考えましょう」
「今は考えないのか」
「今は、見つける方法を考えたいので」
グンソは、何も言わなかった。
オルフェンは、最後にもう一度だけ微笑んだ。そして、港の青紫の灯りの中へ歩いていった。
船室に残されたグンソは、机の上の記録を見つめた。
チェ・ソナ。十三歳。未登録歌姫。保護対象。
その名前の下には、まだ何も書かれていない。
それでも、初めて誰かが、その名前を番号へ戻さずに記録した。
グンソは、無窮花の包みを、紙の上へ置いた。
北方人民共和国。一千年を生き延びた国家。何度崩されても形を変え、どの国にも、どの軍にも、完全には倒されなかった国。
そのどこかに、妹がいる。
地図はない。道もない。名前と、消毒薬の匂いと、三度鳴る警告音だけが残っている。
港の外で、警告鐘が鳴った。
短く三度。
グンソは顔を上げた。
今度は、逃げなかった。
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R-14に繋ぐ。
異世界アイドル☆パラレルパレード
NEO AKIBA ARCHIVE LOG R-14
―無窮花―
南港の古い荷役区画には、使われなくなった船が係留されていた。
青紫の時刻灯が水面に揺れ、巨大な透明天蓋の曲面が遠い空の歪みとして見えている。天蓋の外では黒い雲が渦を巻いていたが、港の内側に雨はなかった。
オルフェンは、管理者の机に置かれていた資料の写しを手に、錆びた船の前で足を止めた。
船体には、水質調査用だった刻印が残っている。現在は登録を失い、港湾台帳からも消された船だった。
その脇に、一人の男が立っていた。
長い外套。痩せた身体。伸びた黒髪。目の下には、眠っていない人間の色がある。
「管理局か」
「違います」
「証明しろ」
オルフェンは剣へ触れず、一枚の記録を甲板へ置いた。
A-12。八歳。
音声刺激、実施。
情緒安定処置、継続。
治療終了。
男の指が止まった。
「……どこで、それを」
「この街へ持ち込まれました」
「誰から?」
「それは、まだ答えられません」
男は記録を見下ろし、船内へ続く階段を指差した。
「入れ」
船室は狭く、窓には厚い布が掛けられていた。古い机の上には乾いたパンと水差し、それから一枚の花が置かれている。
赤紫色の押し花だった。
「綺麗ですね」
男が花を隠した。
「触るな。故郷の花だ。無窮花。ムグンファと呼ぶ」
「妹さんが?」
男の視線が上がった。
「なぜ妹を知っている」
オルフェンは別の紙を机へ置いた。
そこには、チェ・ソナという名前が記されていた。
男の呼吸が一度だけ浅くなる。
「チェ・グンソさんですね」
「その名前は使うな」
「分かりました」
「向こうでは、名前を使わない。番号で呼ぶ。番号で記録し、番号で処置し、番号で死なせる」
グンソは椅子へ腰を下ろした。
「妹は、まだ生きている」
「どこにいますか」
「北部観測都市。保護施設の地下二階」
「保護施設」
「そう呼ばれているだけだ」
グンソは花へ目を落とした。
「家族から離し、適性を調べ、情緒を整え、国家に役立つ人間へ育てる場所だ」
「実際には?」
「家族を忘れるまで、家族の声を聞かせる」
オルフェンは黙った。
「泣けば情緒不安定。怒れば攻撃性。帰りたいと言えば依存症。何も言わなくなれば、安定したと記録される」
「ソナさんは、何歳ですか」
「十三」
その数字だけ、グンソの声が低くなった。
「まだ子供です」
「向こうの記録では、保護対象であり、将来資源だ」
「会うことは?」
「許可が必要だ。面会室には記録官がいる。触れることは禁止。名前で呼ぶことも禁止」
「それでも会えたんですね」
「一度だけ」
グンソは押し花を指先でなぞった。
「妹は、私を兄と呼ばなかった。番号を呼んだ。私が施設で使っていた番号を」
船の外で、係留鎖が水面に擦れた。
「私は工作船の船底に隠れて出てきた。船荷は浄化用鉱石。船員名簿に、私の名前はない」
グンソの指が花の端を押さえる。
「検査官がすぐそばまで来た。靴音が止まった。あと少し動けば、花を潰していた」
「その花を?」
「妹が渡した」
グンソは目を閉じた。
「帰ってきて、と言った」
その声だけが揺れた。
「だから帰れなかった」
オルフェンは彼の向かいへ座った。
「故郷が嫌いなんですか」
「違う。憎んでいるのは、国だ」
グンソは花を見た。
「故郷には妹がいる。家がある。歩いた道も、花もある。だから簡単に捨てられない」
「では、戻りたい?」
「戻れば、妹の隣へ立てる」
「捕まります」
「分かっている」
「殺されるかもしれません」
「それも分かっている」
「私が手を貸しても、妹さんを必ず救えるとは言えません」
グンソはオルフェンを見た。
「あなたは、勇者だろう」
「はい」
「勇者なら、救えると言え」
「言えません」
オルフェンは穏やかに続けた。
「ソナさんが、以前の自分に戻れるとも言えません。私が行けば、状況が悪くなる可能性もあります」
「では、なぜ来た」
「見捨てる理由にはならないからです」
「妹が、もう私を兄だと思っていなくても?」
「思い出せなくても構いません」
オルフェンは、机の上の無窮花を見た。
「あなたが、妹さんを妹だと思っている限り」
グンソは答えなかった。
船室の壁には、北部観測都市へ向かう古い航路図が貼られていた。途中には検問所と軍用橋が並んでいる。
グンソは地図の一点を指で叩いた。
「ここから先は、戻れない」
「帰れない場所なら」
オルフェンは立ち上がった。
「帰れる場所を作ります」
グンソは無窮花を見た。
押し花の花弁は、何年も前に枯れている。
それでも、色だけは失っていなかった。
















