批判する意図はなく、ふと考えたことなのですが、「子どもがいなくても幸せになれる」という言葉は、本当に誰にでも当てはまるのでしょうか。
子どもを持たない人生に幸福を見いだす人がいることと、望んでも子どもを持てなかった人が幸せになれることは、同じではないと思うのです。
Replying to @ICSI_ET @puppet_master_0
移植を積極推進するものでは決してないんですよね。術前に、成功率、ドナーレシピエントの体に与える影響、養子の話を絶対すると思いますし、子供がいなくても幸せになれるよという話も含め、全部理解してもらった上ででしょう。ドナー、レシピエントが少しでも嫌がればその意思は絶対に尊重されます。
代理出産や子宮移植をめぐる議論では、「誰の欲望を裁き、誰に諦めを求めるのか」が当然のように決められている。
しかし本来問うべきは、なぜ子宮がない人や失った人が、最初から諦める側に置かれるのか。その根拠は何か、ということではないだろうか。
ところが現実には、「そこまでして実子を望むのは傲慢ではないか」「その欲望は正当なのか」と、当事者の願望そのものが審査される。
代理出産や子宮移植に伴う負担や搾取の問題を論じることと、子どもを望む女性の願いを裁くことは、まったく別の話だ。
子宮移植や代理出産の議論で、しばしば「養子を迎えればいい」という意見を目にする。
しかし、特別養子縁組は、子どもを持ちたい大人の希望を叶えるための制度ではない。
家庭での養育を必要とする子どもの福祉のための制度である。
そもそも養子縁組は、生殖医療の代替手段ではない。
少し社会学の話をしたい。
「子どもを持ちたい」という願いは、なぜこれほどまでに切実なのか。
代理出産や子宮移植をめぐる議論では、しばしば個人の欲望として片づけられる。しかし、この問題を社会学者アンソニー・ギデンズの自己アイデンティティ論から考えると、違った姿が見えてくる。
ギデンズの理論は、代理出産や子宮移植を無条件に正当化するものではない。しかし、当事者の願いが自己アイデンティティや親密な関係と深く結びつくことを理解する手がかりになる。倫理を論じるなら、身体的リスクだけでなく、誰の自己決定を守り、誰に断念を求めているのかまで問うべきだ。
こうした問題意識から、代理出産をめぐる「搾取」や「倫理」という言葉が、当事者の自己決定とどのような関係にあるのかを考えた文章を書きました。
ギデンズの自己アイデンティティ論も踏まえながら、もう少し詳しく論じています。
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