優しい人は、音を立てない。だから、世界は気づかない。
電車で、誰かが落としたハンカチを拾うとき。レジで、小銭を数える後ろの人のために、少しだけ体をずらすとき。言い返せば勝てる場面で、わざと負けておくとき。
そういう所作には、効果音がない。だから、誰の記憶にも残りにくい。ニュースにもならないし、拍手も起きない。
私はときどき、世界は少しだけ聴力が落ちているのかな、と思うことがある。
大きな声だけを拾うようにできているのかもしれない。主張する声、怒る声、勝ち誇る声はよく聞こえる。でも、小さな声は拾えない。ありがとう、とか、大丈夫だよ、とか、気にしないで、というような、ほとんど息に近い声は。
優しい人が報われないのは、優しさが弱いからではないのだと思う。優しさが静かだから。静かなものは、この世界では、なかったことにされやすいから。
昔、私は優しさを、損だと考えていた時期があった。優しくすると、付け込まれる気がして。譲ると、奪われる気がして。だから、優しくするくらいなら、何もしない方がましだと思っていた。
でも、ある日気づいた。優しい人は、見返りを求めて優しくしているわけではないのかもしれない。優しくしないと、自分が自分でいられなくなるから、そうしているだけなのかもしれない。
誰かのためにドアを押さえるのは、その人が喜ぶからというより、自分がドアを閉めてしまうような人間にはなりたくないから。それは信念に近い。ほとんど癖のような、生き方の癖なのだと思う。
だから、報われるという言葉を、少しだけ定義し直してみたい。
優しい人が報われる世界というのは、優しい人がお金持ちになったり、有名になったりする世界のことではないのかもしれない。そうではなくて、優しさが、途中で折れなくてもいい世界のこと。
今の世界では、優しい人はよく折れてしまう。静かだから、折れていることに誰も気づかないまま、一人で。もう優しくするのはやめよう、と心の中で呟いて、少しだけ硬い人になってしまう。
報われるというのは、その折れそうなところで、誰かがそっと支えてくれることなのかもしれない。君のその優しさは、ちゃんと見ていたよ、と、誰かが言ってくれること。
大きな賞ではなくていい。小さな気づきでいい。ハンカチを拾ったその手を見ていた人が、一人いるだけでいい。
世界をひっくり返すような正義は、私には書けない。でも、祈ることはできる。
誰かの優しさが、偶然ではなく、必然として残るように。
譲った人が、奪われたまま終わらないように。
言わなかった優しい言葉が、なかったことにならないように。
優しい人が報われる世界になってほしい。
それは、世界が優しくなるというより、世界がもう少しだけ耳が良くなるということなのかもしれないね。
人に好かれるためには、相手に合わせることが大切だと思われがちだけれど、合わせ続けるほど、自分の気持ちの置き場所が分からなくなってしまうことがある。嫌われないように言葉を選んで、空気を読んで、角を丸くしていくうちに、好かれているのは自分なのか、それとも作った姿なのかが、分からなくなってしまったりする。
好かれるということは、誰にでも好かれることとは、少し違う気がする。素の自分を出せば、合わない人もいる代わりに、その姿を好きでいてくれる人と出会える。飾った姿で好かれるより、少し不器用でも自分のままでいて、それでもそばにいてくれる人がいることのほうが、心がほっとするのだと思う。
傷ついたことのない幸せは、少しの衝撃でも崩れてしまう。守られてきた幸せは、幸せでいられる理由を、周りの穏やかさに預けてきたのかもしれない。波風の立たない日々に支えられているあいだは穏やかでも、その支えが揺らいだとき、自分の足で立つ方法を、まだ知らなかったりするんだよね。
一度傷ついて、それでも戻ってこられた幸せは、形が変わっていく。前より派手ではないかもしれないけれど、幸せは自分の中にも作れるのだと知っているから、簡単には揺らがなくなる。傷そのものが人を強くするのではなくて、戻ってこられることを知ることが、幸せを少しずつ丈夫にしていく。
「なんとかなるよ」と軽く言える人は、たいてい、これまで周りが何とかしてきてくれた人なのだと思う。困ったときに手を貸してくれる誰かがいて、失敗しても受け止めてくれる人がいた。その積み重ねの中で、世界はなんとかなるものだという感覚が、育っていくのだと思う。
自分がどちらの側だったのかは簡単には決められなくて、両方を経験している人も多いのだと思う。自分で何とかしてきた経験がある人は、その言葉を軽くは言えない。支える側の、見えない苦労を知っているから。「なんとかなる」は世界の性質ではなくて、誰かの支えの上に生まれる言葉なのかもしれない。そう思うと、その言葉の向こうに、支えてくれた人への感謝も生まれてくるね。
人生で一番辛かった時を、一人で耐え抜いた人は、誰がそばに残るかに、以前ほど心を揺らされなくなるのだと思う。
誰かにそばにいてほしかった夜も、朝は一人で迎えるしかなくて、それでも光は差して、一日は始まってしまった。泣いていた昨日の続きで、今日もご飯を食べて、外に出て、やることをやっている自分がいた。人は、寄りかかる場所がなくても、生きていけるのだと思う。
その経験は、人を遠ざけるものではないのだと思う。去っていく人を追わなくなるのは、冷たくなったからではなくて、一人で朝を迎えられた自分を知っているから。一人で立てることを知っている人は、そばにいてくれる人の温かさを、必要だからではなく、そのままありがたいものとして受け取れるのかもしれない。
他人への期待を失うことより、自分への期待を失うことのほうが苦しい気がする。誰かにがっかりしても、その痛みは相手との関係の中で起きているもので、距離を取ることもできる。でも、自分に期待できなくなると、逃げ場がない。今日したことが、明日の自分につながっていく感覚まで、少しずつ薄れてしまうから。
自分への期待を失ってしまうと、立ち直る力というより、立ち直ろうとする気持ちそのものが、生まれにくくなってしまう。もう一度やってみようと思えるのは、自分はまだやれるかもしれないという期待があるからで、その期待が持てないと、頑張ることが何かにつながると信じることさえ難しくなる。生きることが苦しくなるのは、そのときなのだと思う。
