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Replying to @tmk_backside
たくさんのフォローありがとうございます😊
さまざまな物事を宗教的な観点で構造解析するアカウントです。
引き続きフラットな視点で歴史や宗教を語っていきます。
海外生活経験もあり、かつ寺の娘としてハッキリ言いますが…日本のアニメは「侵略するつもりがない侵略者」です。
このアルジェリアの方の危機的な直感は非常に正しい。
一神教の社会は「正しさは一つ」という軸の上に、信仰も倫理も共同体も組み立てられています。
その社会の若者が、十代のうちに「絶対的な正義はない」という日本的な、神道や仏教をベースとした物語を何千時間も浴びたらどうなるか?
一本は面白い物語でも、積み重なれば宗教教育の土台を静かに裏返す行為になります。
「敵にも事情がある」という日本の空気は、仏教と神道の土壌で育った日本人が吸う分には、当然無害です。
でも、別の土壌に流れ込んだら話は変わり、洗脳教育となってしまいます。
これはその通りです、本当に。
むしろ、「共同体やコミュニティの代替装置が保険」とも言えます。
かつては"お金以外"で解決できてたものを、お金で解決しようとして、金ない金ないと貧困に喘いでるのが現代日本人です。
お金で解決しようとする人生はお金かかるのです(小泉構文)
もし根本解決をしたいならば、黒人たちは今からでも歴史と神話を作って持つべきだと考えます。
ユダヤ人が出エジプト記やバビロン捕囚を記したように、イングランド捕囚や出スペイン期を編纂して、アフリカ系の神話を体系化し、それを自らのアイデンティティにすることが解決策になると考えます。
Replying to @ichiki_817
The word "black" makes some sense in America, because lots of black people don't know their specific heritage from Africa. But yes, it is really reductive.
おそらくですが、「不毛」と「過剰」、「無変」と「有変」の違いかと考えます。
といいますのは、砂漠は不毛です。自然の脅威が"なさすぎる(草が生えない)"という形であるのです。そしてそれが変わらない。
しかし北海道は自然の脅威が"ありすぎる(雪降りすぎ、木生えすぎ)"という形で、季節によってはサケや鹿が大量に獲れて備蓄できる。
この違いによって、
人間は神の「奴隷」である一神教
人間と神は「契約関係」である多神教
になったのだと考えられます
現場のリスクを背負わないエリートが、自身のステータスのために「崇高な道徳」を語る。
という動きは歴史上に何度もありました。
イエスの時代は日々の労働に追われる羊飼いや大工には実践できない「教条主義的な神への信仰」であり、
現代ではセレブがセキュリティーの強固な高級住宅街に住み、ボディガードをつけながら、「トランス女性の女子更衣室受け入れ」や「無差別な移民受け入れ」を語ることです。
生活者の剥き出しの現実や、現場にかかる物理的な負担、治安の悪化といった実害から完全に遮断された、恵まれた環境にいるからこそ掲げられる「特権階級の理想論」。
ブッダ、イエス、ムハンマドたちが猛烈な「逆張り」を仕掛けた対象は、実はまさにそこでした。
だとすれば。
今一度問い直すべきは、本来の「リベラル」のあり方ではないでしょうか。
現代におけるリベラルは、生活の実害から守られた安全な場所から、現場の人々の命や安全、治安のリスクを差し出して「崇高な道徳ゲーム」に興じることへと形骸化してしまっています。
まるで免罪符をお金で買えば天国へ行ける時代のようです。
しかし、本来の意味におけるリベラル(進歩・解放)とはそんな薄っぺらな綺麗事ではありません。
始祖たちはその生き様によって、硬直化した過去の特権や不条理から現場の人々を解放しました。
その教えは、その時代の、その土地の現実に最も適した形で、民族を団結させるためのシステムや教えを構築しました。
宗教というと重苦しい伝統のようなイメージを持たれがちですが、実は「リベラルポリコレ現場おじさん達」の軌跡なのです。
この疑問の"違い"こそが、実は答えです。
なぜ日本は一神教がない国なのに平和?
西洋はなぜ一神教があるのに荒れるの?
↑ここに現れているように、そもそも、「人間という存在をどう捉えるか?」が東洋と西洋では反転しています。
すなわち、東洋は「性善説」
西洋は「性悪説」という前提によって成り立っています。
この人間観の違いは、決して偶然生まれたものではなく、それぞれの民族が生き抜いてきた「地理的な環境(風土)」と、そこから紡ぎ出された「宗教の歴史」に根ざした必然の帰結なのです。
旧約聖書や新約聖書、あるいはイスラム教の聖典が生まれた古代中東アジアから地中海世界にかけての地域は、峻厳な砂漠や乾燥地帯が広がる過酷な風土です。
水が極限まで乏しく、放っておけば飢えと渇きが命を脅かす世界において、自然は「恵み」ではなく「牙を剥く脅威」でした。
このような環境下では、限られた資源を巡って激しい奪い合いが日常化します。
実際、出エジプト記やバビロン捕囚が旧約聖書に残っている通り、ユダヤ人は大変な迫害からユダヤ教を確立しました。
「人間は放っておけば自分の生存のために他者を排斥し、悪に染まっていくものである」
という、ユダヤ教のアダムとイブ追放そしてカインとアベルの兄弟間での殺し合いや、キリスト教の「原罪」に代表されるような性悪説的な人間観は、この過酷な風土がもたらした生存の実感でした。
人間が本質的に不完全で、放っておけば社会が瓦解してしまう世界。そこに必要なのは、人間を超越した絶対的な存在による、上からの強固なコントロールでした。
「唯一、永遠に、絶対的に、正義であり、正しいとされる『神の掟』」
正解をたった一つに定め、それに背くものを「悪」「間違い」として厳格に裁く一神教のシステムは、この不条理で過酷な砂漠で迫害された民族が生き抜くために集団の統治力を極限まで高めた、極めて合理的な「サバイバル・システム」だったのです。
西欧世界において一神教があるにもかかわらず激しい対立や荒波が絶えないのは、元来そこが「絶対的な正解で縛り付けなければ、たちまち崩壊してしまうほどに過酷な世界」であるからに他なりません。
一方で、私たち日本が位置する東洋の風土は、それとは全く対照的です。
「一神教があるから平和になる」
これは実は因果が逆です。
「共同体外の人間を信じないことが生存戦略となる世界(砂漠・迫害)」だから、一神教が必要とされ、広がり、宗教が同じことを相手を信じる根拠にした。
逆に日本は、
「共同体の垣根を越えて助け合うことが生存戦略となる世界(農耕・島国)」だから、それぞれの価値観を内包する多神教と、"唯一絶対"を拒否する仏教によって和を生み出した。
このように歴史と地理、そして宗教の成り立ちを紐解いていくと、二つの世界はどちらが優れていて、どちらが劣っているかという二元論では決して語れないことが分かります。
絶対的な幻想を強力な武器にして、乾きを乗り越え国を作った西洋。
絶対的な幻想を手放すことで、協力して治水して国になった日本。
そのどちらもが、与えられた環境の中で人間が懸命に命を繋ぐために紡ぎ出した、等しく尊い「生きるための知恵」なのです。









