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いまだに「ハン」と「ハーン」はどっちでもいいと思っている人がいますので、明確に違うことを知っていただきたい。
#モンゴル史
#モンゴル帝国
#世界史
youtube.com/watch?v=SXou5ucn…
この間違いだらけの『最新世界史図表』(第一学習社)を修正してみました。このように一昔前の地図では謎の「タタール(韃靼)」と「オイラト」を分けて描くことが多いですが、これは大元大モンゴル国(モンゴル帝国)のままであり、同じ政体です。その中に「四十モンゴル」と「四オイラト」がいるのです。
1449年の土木の変は「オイラトのエセン=ハンが明に侵入」と書かれますが、そうではなく「モンゴル帝国のタイシ(宰相)であるオイラト出身のエセンが明に侵入」と書くべきなのです。この時のハーンは第27代タイスン・ハーン(トクトア・ブハ)です。エセンがハーン位を簒奪するのはこの後の1453年で、しかも「ハン」ではなく第29代「ハーン」です。
またこの地図に「ウイグル」とありますが、ウイグルは元朝期に滅んでますし、「ティムール帝国」ではなく、ティムール朝支配下のモグーリスタン・ハン国の間違いです。
何かと話題になる「ウイグル人」とはなんなのか?
世界史を学んだ人で古代のウイグル(回鶻)の子孫だと勘違いされてる人が多いと思いますが、実は別系統の民族なのです。
古代ウイグル(回鶻)とは8〜9世紀ごろにモンゴル高原を支配した遊牧騎馬民族でした(図1)。しかし、そのウイグル可汗国は内紛によってバラバラとなり、あるグループは甘州ウイグルになり、あるグループは天山ウイグルになり(図2)、あるグループはナイマンになりました。
時は流れ、13世紀モンゴル帝国の時代、天山ウイグル王国はまだ天山地方にいましたが、西遼(カラ・キタイ)の圧政に耐えかねて即位したばかりのチンギス・カンに臣従し、モンゴル帝国に組み込まれます。そして元朝の時代に完全に消滅し、ウイグルという名も忘れ去られてしまいます。
時は流れ、タリム盆地周辺はチャガタイ・ウルス、モグーリスタン・ハン国、ヤルカンド・ハン国とモンゴル国家が形成されますが、言語的にはテュルク系の南東語群の住民が満ちていました。この言語は古代ウイグルの東部語群とは違う、カルルクの系統で、宗教はイスラム教でした。
そんな中、ジュンガルがこの地を支配しますが、モンゴル系であるオイラト語には染まりませんでした。その後清朝がこの地を支配し、「新疆」という名前をつけ、新疆省とします(図3)。
この頃彼らには統一的な民族名はなく、ただカシュガル人や、ヤルカンド人、トゥルファン人、ホータン人、タランチ、テュルク人などで自認していました。
しかし、清朝の支配下で彼らの不満が募り、辛亥革命で清朝が倒れるとそれが爆発して独立を決意します。そこで彼らの民族名がバラバラだったので統一しようと考えます。ある知識人が古代に「ウイグル」という名前があったことを見つけます。「ジュンガル」や「モグール」といったモンゴル系ではないテュルク人としてちょうど良い名称でしたので、1934年、盛世才政権下の新疆省政府が「ウイグル(維吾爾)」を公式民族名称として採用しました(図4)。
そして「東トルキスタン共和国」を建国しますが、そもそも統一した民族でなかったために短期で崩壊、そうこうしてる間に中華人民共和国の人民解放軍がやって来て新疆はあっという間に掌握され(1949年)、現在の新疆ウイグル自治区となりました。
以降はみなさんの知るありさまです。
結局影響力のある人物の一言ってでかいよな
【大どんでん返し】朝青龍、モンゴル火災の報道に異議
モビコム社員が釣りをしようと保護区に入り火災発生、モンゴル政府がKDDI系に巨額賠償要求、と報道
↓
朝青龍「一方的な日本人が悪いじゃなくて、現地で連れて行ったモンゴル国会議員たちは言わないの?」
↓
その後「 モビコム社員は国境港湾局の要請で訪問、移動中はモビコム社員の車両の前後に当局の車両が走行する体制だったが、モビコム社員が乗る車から発煙」とKDDIが説明
最初KDDIが叩かれてる時から朝青龍は疑問を呈し、その後KDDIが当局同行だったと説明、朝青龍と言ってることが完全一致。朝青龍はその後も報道の圧力についてつぶやいてたけど、一体どこまで知ってるんだろ(笑)どちらにしてもこのまま潰されかねなかったKDDIからしたら最高の救世主だよな。報道の圧力とか全く気にしないで呟いちゃう朝青龍、かっこよすぎる。さすが元横綱。
zakzak.co.jp/article/2026102…
トムル retweeted
never seen this portrait of kublai before... it goes so hard with the dragon, sun and moon embroideries on the mongol terlig 😝 and he looks quite young too
めっちゃまともな指導者。このスピード感が普通。9年間はっきりした方針を出さないどこぞの大統領、無能な農水大臣更迭に1週間も迷うどこぞの首相とは雲泥の差。
🇮🇹【「壊した奴とその親が全額払え!」メローニ首相の暴動潰し緊急政令が凄まじい🤣】
🌹🎙️ ジョルジャ・メローニ首相:
「週末、ミラノをはじめとするイタリアの各都市で発生した暴力行為(暴動)の様子を、私たちは皆が目にしました。
店が略奪され、店舗の正面が破壊され、警察などの法執行機関が襲撃されるといった事態です。
これらは決して容認できるものではなく、誰であれ、こうした行為を軽視したり正当化したりすることは許されません。
そのため、閣僚評議会は本日、こうした暴力行為を未然に防ぎ、それに対抗するための新たな措置を盛り込んだ『政令』を承認しました。
これは、ここ数ヶ月間に導入された対策をさらに強化するものです。
その中には、人工知能(AI)を活用した生体認証技術を用いて、フードなどで顔を隠している者の正体を特定する取り組みも含まれています。
本日導入された新たな規定について、できるだけ分かりやすく説明します。
第一に、「デモにおける暴力的な参加」という新たな犯罪が規定されました。
つまり、デモや抗議活動の最中に5人以上のグループに加わり、石や爆竹、棒などを投げつけて公共の安全を脅かした場合、最大で禁錮5年、および最大2万ユーロの罰金が科されることになります。
顔を覆っていた場合や、誰かに怪我を負わせた場合には、罰則はさらに重くなります。
集団で破壊行為に及んだ者に対する罰則も同様に強化されます。
第二に、「壊した者がその代償を払う」という単純な原則を適用します。
もし破壊行為に及んだのが未成年者であれば、その親が賠償責任を負うことになります。
具体的にはどうなるのでしょうか。
バス停のシェルターや信号機、警察車両といった公共の財産が損壊された場合、県知事(プレフェット)が当該個人の自宅へ賠償を求める通知を送ります。
一方、店舗の正面や店内の商品、あるいは自動車といった私有財産が損壊された場合、所有者は裁判所に申し立てを行うことで、即時に執行可能な命令(差し止めや賠償命令など)を得ることができます。」
👏🎉🎉🇮🇹
👉️【新『政令』解説】
・「デモ暴力参加罪」創設(最高5年錮+罰金約320万円)
・AI生体認証で覆面暴徒を特定
・公物・私物の破壊は即時全額賠償命令
・未成年の破壊行為は「親」に賠償責任
「社会への不満」を免罪符にした略奪・破壊を一切許さず、「壊した者が代償を払い、親も責任を負う」という当たり前の法秩序を力で叩きつける。
メローニ首相が覚醒!
トムル retweeted
「草原の最後の王女」チンギス・ハンの第32代子孫が104歳で死去
news.nicovideo.jp/watch/nw19…
チェチェンハングルーさんはチンギス・ハン直系の血を引くだけに、社会の大変化に伴い激動の人生を歩むことになった。
しかし生前の彼女を知る人は異口同音に「優しく、かつ粘り強い性格だった」と言う。
せっかく『鎌倉殿の13人』を見たので、モンゴル史と関連させてみる。
まず思い浮かぶのが「源義経=チンギスカン説」です。この説については以前のポストをご覧ください。
この説があるようにチンギスカンの時代はまさに『鎌倉殿の13人』の時代です。源義経が生まれたのは1159年、チンギスカンが生まれたのは1162年でほぼ同時期。源義経が死んだのは1189年で、テムジンの行動ではっきりとなる年は1190年頃の十三翼の戦いからになり、「どこでもドア」と「ほんやくコンニャク」があればなんとか成立しそうです。源義経は突飛な発想と優れた軍略によって平家をあっという間に滅亡させ、その優秀さゆえに兄の源頼朝から消されてしまいます。テムジンは軍略家ではないですが、次々とモンゴル高原の部族をなぎ倒し、大モンゴル国(モンゴル帝国)を成立させます。
むしろ頼朝のほうが近いかもしれませんが、だいたい王朝の創始者はそんなものです。
まさに『鎌倉殿の13人』の時代はチンギスカンの活躍した真っ只中であり、坂東武者たちが頑張っていたころにモンゴル高原ではモンゴル部族が頑張っていたことを思うと、なにか熱いものを感じます。
1221年の承久の乱が起きた時、チンギスカンはホラズム・シャー朝遠征でパルワーンやトゥースを攻めていたあたりです。そう、すなわち『天幕のジャードゥーガル』の冒頭です。
そんな両者がのちの1274年・1281年(いわゆる元寇)にぶつかり戦うのはまた面白いことです。
この分布と居住期間によってこの地域は現在でもテュルク系キプチャク語群であるカザフ語、タタール語、カラカルパク語が残ります。
いくらジョチ・ウルスが統治しようと、モンゴル語化はせず、キプチャク語群は継続されました。
もとは西突厥によるテュルク化の影響が大きく、モンゴルとは比べ物にならないくらい長期に居住しました。その前は印欧系イラン語群系のサカ・スキタイ民族がこの地を支配していました。
『鎌倉殿の13人』での頼朝はKYでデリカシーがなく、自分勝手で、疑い深く、浮いてしまう典型的なダメ男としてうまく描いています。大泉洋さんはこの手の役には定評があり、こういった役が多いです。この手の男性はダメ社長や古い父親、政治家によく見ます。
彼らのようなタイプの男性が時代を作ってきましたが、彼らが作らなくとも、動かなくとも、むしろ動かない方が平穏な時代は存在したはずです。彼らのようなタイプが揉め事を起こし、それを自分で回収していく。勝手に物語をつくって波瀾万丈にして死んでいく。歴史の多くはそんな身勝手な一部の人間によって形成されています。それが人間の生存競争というならばしょうがないことです。
そんな人間の一面をこのドラマは描いていて素晴らしいと思いました。
【世界史の地図でちらっと出てくる「バクトリア」とは?】
バクトリアとは地名であって、世界史にでてくるいわゆるギリシア人国家としての王国は「グレコ・バクトリア王国」といいます。
バクトリアはアケメネス朝の時代、もともと「バークトリシュ」というオアシス都市国家であり、アケメネス朝の支配下となってバクトリア属州になりました(図3)。その後はマケドニア王国のアレクサンドロス3世の東方遠征によってその支配下となり、同じくバクトリア属州になりました。
バクトリアには別に現地民であるバクトリア人(バクトリオイ)がおり、言語はイラン系のバクトリア語でした。アレクサンドロスが死ぬと、バクトリアはセレウコス朝の支配下になりますが、紀元前250年頃にバクトリア州のサトラップ(総督)だったギリシア人のディオドトスが反乱を起こし、独立してバクトラを都とするグレコ・バクトリア王国を建国しました。なので、ギリシア人国家であり、これが教科書に出てくるバクトリア王国です。最盛期には北のソグディアナ、南のアラコシア、ゲドロシア、北インドを支配し、中央アジアに大きな勢力を持ちましたが(図2)、紀元前140年〜紀元前130年の間に北の遊牧騎馬民族であるアシオイ,パシアノイ,トカロイ,サカラウロイの4種族に侵攻され、王国は滅ぼされました。
この事件はストラボンの『地理誌』やポンペイウス・トログス / ユスティヌス抄録『地中海世界史』に断片的に記される程度で詳細は分かりません。その後の歴史は中国の史書『史記』『漢書』によって引き継がれますが、そのときには「大月氏」という遊牧国家とそれに従属する「大夏」という謎の国家がバクトリアに存在していました(図4)。
大月氏は上記の4種族の一つ(アシオイ)なのか、大夏はバクトリア王国なのか、はたまた大夏が4種族のひとつトカロイで、あとから大月氏が来たのかは、歴史の闇の中です。
そのカギを握るのはアフガニスタンのバクトラ遺跡の発掘調査ですが、せっかく進んでいた調査も2021年以降、タリバン政権の復活によって中断されたままです。以前(1978年)もせっかく進んでいたアイハヌム遺跡調査もソ連侵攻とその後の内戦によって中断され、遺跡は破壊されてしまった過去があります。
ロシア連邦のトゥヴァ共和国はテュルク系のトゥヴァ人の国です。記事にある「トゥワ」とはモンゴル語発音(Тува)によるもので、彼ら自身は「トゥヴァ Тыва」といいます。モンゴル国と接していて清の時代はタンヌ・ウリャンハイと呼ばれ、その前はモンゴル帝国に属しており、1207年頃にチンギス・カンの長男ジョチによってその支配下となります。古くは鉄勒の一部族「都波」「都播」として中国史書に記されています。
彼らの多くは仏教徒であり、チベット仏教のゲルク派を信仰します。チベット仏教のゲルク派といえばダライ・ラマの宗派ですが、モンゴル帝国時代(北元期)にアルタン・ハーンが施主となって広まりました。
「特別軍事作戦」を仏教界も後押し 背景にはトゥワの複雑な歴史
mainichi.jp/articles/2026100…
ロシアで最も人口あたりの戦死率が高いトゥワ共和国。現地で広く信仰されている仏教の指導者も、出征を後押ししていました。その背景には、トゥワの複雑な現代史があります。
素晴らしい👍
Sivas Kayalıpınar’da, Hititlerin devlet hafızasına uzanan çok önemli bir keşfe imza attık. 2026 yılı kazılarında antik Šamuḫa’da, Kral II. Tudhaliya dönemine ait 131 çivi yazılı tablet ve parçasını gün yüzüne çıkardık.
Geçtiğimiz sezon bulunanlarla birlikte sayı 184’e ulaştı. Böylece Kayalıpınar’daki kraliyet arşivi, 21. yüzyılda ortaya çıkarılan en kapsamlı Hititçe arşiv olarak tarihteki yerini aldı.
Hititçe ve Hurrice kaleme alınan bu belgeler, yaklaşık 3 bin 400 yıl öncesinin devlet yönetimini, askerî gelişmelerini, inanç dünyasını ve kraliyet ailesinin yaşadıklarını doğrudan günümüze taşıyor.
Tabletlerde şehirden şehre yayılan, özellikle çocukları ve bebekleri etkileyen yüksek ateşli bir salgının izlerine rastlanırken hastalanan bir bebek prensesin sağlık durumu, ardından vefatı ve onun için gerçekleştirilen cenaze ritüeli de kayıtlarda yer alıyor.
Batı Anadolu’daki Hitit generallerinin krala gönderdiği bir başka mektup ise düşman tehdidi karşısında asker, at ve savaş arabası talep edildiğini, yardım ulaşmaması hâlinde ordunun yok olabileceğine ilişkin uyarıları ortaya koyuyor.
Kuş falcılarının izledikleri güzergâhları ve gözlemlerini kaydettikleri tabletler de Hititlerin kehanet uygulamalarına ilişkin daha önce bilinmeyen bilgiler sunuyor.
Bu eşsiz arşiv Hitit tarihinden dinî uygulamalarına, dilin gelişiminden kâtiplik kültürüne kadar pek çok alanda yeni bir kapı aralıyor.
Anadolu’nun binlerce yıllık hafızasını bilimle gün yüzüne çıkarmaya, korumaya ve geleceğe taşımaya devam ediyoruz.





































